『私が考える「看護の専門家」としての要件』
                                          板垣 友子

  看護師を続けて約9年になるが、自分で考える看護師像というのも年々変化しつつ現在
に至っているように思う。また、目指す看護師像をイメージすることで日々の看護を続けていく上での自分自身の支えにしていることは確実であると考える。
 医療は、進歩をしている。その中で看護の専門性をとわれる機会が増えている。日々の日常生活援助だけで考えると決して看護師以外が援助できないわけではない。家族もそれをなしえることができる。その中で看護師が自分のケアする患者に対して自分の行った看護について責任を持つということが、専門家としてまず念頭に置かなければいけない一つであると考える。看護の責任を持つということが、どのような事かと考えるに当たりまず重要なのが、看護のニーズがあるのか・そのニーズが何かという事を読みとる技術ではないかと考えている。ニーズを読みとった後それを満たすためにどのような援助を必要としているかということを考える。その中でその援助の種類が重要なのではなく、その援助をどのように行うかということが重要である。ニーズを満たすためあるいは何かの目的を達成するための過程いわゆる方法の選択が重要である。患者個々の状態や状況などによりそれらは異なるため、その状態などを考慮して方法を選択していけるということが、看護師
としての専門性を問われる部分であると考えている。
 前記に述べたことが、看護と他の職種との
違いや専門性を考えるにあたり自分自身で基本にしている部分の一つであるといえる。その中で私の考える専門家としての要件を述べていきたいと思う。
 看護師は、様々なタイプや考え方の看護師がいる。これは患者にとってプラスになると私自身は考えている。すべての看護師が同じように感じ、考える事はありえない。そして様々な意見が出る中でベストの看護が、うまれていくことが良いと考えている。その中で私自身も気を付けていることではあるが、自分の価値観などは、自分自身のものであり、当然のことではあるが、患者自身のものではない。個々の看護師が、価値観を持ち働く事は、専門家である以上必要であると考える。しかし、決してその価値観を押しつけるのではなく、自分の価値観を知ることで相手の価値観を知り、考えることができるということが重要なのである。自分の価値観や考えを知らずに看護をした場合、相手が必要なことではなく、自分が必要であると考えることを援助として提供し、押しつけてしまっている傾向になることが多い。ある意味では、相手の立場に立ち考え、援助をすることは、重要で
あるが、あくまでもその方法は、一例であり本来の患者・家族の必要な看護とはいえないこともあるということを、認識する必要があ
る。ある講習会で、家族看護を学んだ時に講師が、「看護師は、こうでないとおかしいという言い方をする事が多い。」と話されていた。自分の場合を考えてみても、「何故この患者の家族はあまり来ないのか。最期の時間をもっと一緒にいてあげてほしい」と思ったり、感じたりしていることが多い。自分自身では、患者の立場に立っているつもりでもそれは、ひとりよがりであることも多いのである。この様に考えてみても、患者や家族の立場に立ち、援助をするということが重要で難しいという事であることがわかる。そしてこれをなしえる事が本来の意味での患者の必要としている看護を提供できる時の重要な技術の一つであると思う。



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