『私が考える「看護の専門家」としての要件』

                                            国井裕美

訪問看護師として、病院の外で働き始めて強く感じたことがある。どこでも人が人を看護している。たくさんの人、いろんな職種の人が看護をしている。以前は病院の中でナースキャップをかぶって働いている人が看護の専門家、看護師だと思っていた。中身はどうあれ看護師という妙なプライドをもっていたと思う。しかし自身を持って白衣を脱げば、訪問先で、ある時はベテランヘルパーさんに睨まれお湯をひっくり返し、ある時は介護者の方に即席の洗髪セットを教えてもらったり、楽な移動方法を教わったり。挙句のはてに「ヘルパーさんお茶入れてくれる?」と言われ「ヘルパーさんじゃなくて看護婦です!」と難聴の御婦人に大きな声で言おうとして、はたと戸惑う自分。何をむきになっているのか?そもそも私の仕事は何なのだろう?

私は誕生日がナイチンゲールと同じだ。小学校の頃から知っていたが、だからといって看護師を目指した訳ではない。小学校の頃、妹が喘息もちで、祖父の家に姉妹だけで行くと、たまに夜発作を起こして、どうしたらいいのかと、とても不安だった。起きると楽になるようだ、と布団の下に座椅子をいれ角度をつけたり、座布団を入れたり、背中をさすれば楽になるのでは?ベポラップを塗ると楽そうだ、等知識はないが行っていた。その妹は成長するとともに発作もなくなり、昨年結婚して幸せそうな姿を見たときは、喜びや寂しさといった感情が少ないと思っている私にとっても、とても嬉しくて寂しかった。話しがそれたがその他に病気になった時も楽にしたい、なりたいという気持ちが常にあったと思う。自然と病気の人を楽にする方法を知っている職業に、偉人に目がいったのではないかと思う。ナイチンゲールの『看護覚え書き』には「何が看護であり、何が看護でないか」、また看護はアートでありサイエンスであるという概念が示されている。看護とはある人の個別的な健康に責任を負うこと、看護が目指すべきことは、その人が活動できるために最も良い環境に患者を置くことであるとも述べている。私は今訪問している利用者さんの周りには、このナイチンゲールの考えにのって動いている看護師以外の方達がたくさんいると思う。当然であってほしいことだし、看護師だけがそれをしている、知っていると思っていた私の考えがすごく狭かった。そうなると看護師との違いは何だろう、と考えていると一つあたりまえの事を思った。病気による苦しみを楽にしたい、早期発見したい、予防したい、そして、そういう気持ち、観察眼、対処法をたくさん持っていることだ。

そこで、私が考える看護の専門家、看護師の要件を3つ考えてみた。

 1 健康に何かの障害がある方や家族の本当の苦しみ・悩み・望みを知ること、感じられること。心
   や体の状態をできるだけ正確に感じることができる。

 2 その人にとって何が一番良いのか共に考えることができる、良い方法を見出し導くことができ
    る。

 3 たくさんのケア・調整方法を知っていて、一人一人に合わせて組み合わせること、想像すること
    ができる。

そして、利用者がその人らしく生き生きとなってくれるよう関われば、関わっている側全員もとても嬉しいのではないかと思う。

反省するが病院勤務時は個別的な健康に責任を負う、という考えはあまりなかった。利用者の在宅生活を支えることにより、利用者が主役ということを実感し、自分の観察眼や対処法の少なさも実感した。。そしてなによりもその人を理解することや、感情を共感することの難しさを知った。たとえ対処法を知っていたとしても、互いの言いたいことや気持ちを理解できなければ良い方向には進まない。年を重ね、多種多様の人生経験のある方に関わることが多く、理解や共感しながらというのはとても難しいが、それができるような会話を持てるようになることが、他人であるけどその人にとっての「看護の専門家・看護師」になる要件の一番大切なものだと思う。漠然とした「看護の専門家としての要件」となり、もう少し感覚的ではない要件に変わったほうがいいと思っている。たくさんの出会う方から学び続けなくてはならない。それから自身の中身にたくさんの引出しを作るため、心の充電や整理整頓の時間を作っていきたいと思う。これも大きな要件だと思う。そして、新しくこんなこともできた、と喜べるような看護のできる人になりたい。

 



                          <戻る>