『私が考える「看護の専門家」としての要件』

                                          永野 由佳

 
 私は臨床看護の中で「私は今看護できているか」と考える瞬間が度々あった。看護の本質は何か、何を大切にすべきか。それらを考える必要性を感じて大学に行き、様々な出会いの中で「ケア/ケアリング」の概念に触れ、看護について再考するきっかけを得た。ケアの「気遣い・配慮・顧慮」という本来の意味に触れ、心が震えた。それは私を看護の原点に引き戻してくれた。学士論文で取り上げた看護理論家のシスター・ローチ流に言えば、ケア/ケアリングとは「人間である限り誰もが持っている、感じ取り応答する能力」である。
ケアリングは「看護の本質」ともいわれている。「本質」を「それがなくてはそのものではなくなってしまうような大切なもの」と捉えるなら、ケアリングなしでは看護でなくなってしまうと言える。ケアリングに根ざした看護は看護のあるべき姿ではないか。私は自分の内に眠るケアをする力を引き出し、発現させ、具現化させていきたいと考えた。今回、このケアリングを前提にして「看護の専門家としての要件」を考えていきたい。

 ローチはケアリングを「人間の存在様式」、つまり人間であれば誰でもケアをする力を持っていると捉えていた。看護師に限らず、親が子を、教師が生徒をというように、生きていること自体がケアに向かっている。人間はケアに向かっていくべき存在であるというローチの姿勢に私は深く共感した。看護を広く捉えた時、子を育て、病める者への世話・癒し・励ましといった、家族や地域社会の連帯など一般的な援助関係も看護といえるだろう。特別な教育訓練を受けずとも経験によってケア行為は熟練できる。これらは自然発生的で、暗黙の契約、愛情・友情という相互的な人間関係に基づいている。しかし「看護の専門家」としてケアリングが職業化された時、人間なら誰でも持つケアする能力を看護の専門家としてのそれに鍛え上げることが求められる。

 看護の専門家としての「感じ取り応答する能力」はどのようなものか。ローチは職業的ケアリングの諸属性(ケアリングの固有の現れ方)を@思いやり、A能力、B信頼、C良心、D専心の5つを挙げている。これを元に看護の専門家としての要件を考えてみたい。

 @をローチは「系統的な探求・努力の成果・道徳的命令ではなく、完全無償の資質で、自己愛と他者への愛が一つになったもの」と説明する。専門家としての要件は、人間性の豊かさと暖かみであろう。自分の内にあるケアする力(愛する力とも言い換えられるのではないか)を引き出すために、自分の本当の姿を探求していく姿勢が求められると考える。

 Aをローチは「職業者としての責任を果たすために必要な知識、判断能力、技能、エネルギー、経験および動機付け」と説明した。看護の専門家としての要件は、医療全般への広い視野や知識、社会的要請の認識、有用とされた看護理論に基づくケアの習得、全人的な看護の対象の全体像を踏まえたアセスメントと看護計画に基づいた看護ではないか。

 Bをローチは「真に頼ることのできる関係を生み出していくような質」と定義した。看護に適応するなら、専門家としての看護の提供を通して、真に信頼される人間関係を構築する人間的能力と考えた。

 Cをローチは「道徳的意識を持つ状態」と定義した。これは看護の専門家としての自覚と責任を根付かせ、医療倫理の社会的議論を踏まえつつ、倫理的判断の元に看護を常に提供することではないか。また常に自分の看護を振り返る姿勢が重要と考える。

 Dとは、義務や責任という負担を感じず、意図的・自発的・積極的にその行為へと向かわせる力だ。看護に適応するなら、心から看護へ突き動かす力と考える。また専心は看護師である限り看護の知識と技術を追求・探求する原動力ともなると考える。
専門家としての看護は、対象者のニーズや特定の問題解決といった目的に対し、科学的で正確な知識と技術に裏付けされ、有用性が立証された理論・主義に基づく方法で看護実践されなければならなくなる。同時に専門家としての看護の対象は個別性を持つ人間である為、これらの理論を杓子定規的に適応するのではなく、「誰とも違うかけがえのないあなた」に対し、理論に基づいた個別的な方法を創造していく力が大切と考える。その力は対象を大切にし、より人間的であたたかく、ハートフルな看護を創っていくのではないか。
「専門家としての看護」は看護の真の技と心と責任と努力が必要であり、大変厳しいものであるが、看護の専門家になっていく為に自らを鍛え続けていきたい。



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