『私が考える「看護の専門家」としての要件』

                                           中西 真理

看護は人間を対象とするヒューマンサイエンスです。したがって、看護を行っていく場合、その対象となる人間を知るということがとても大切になると思います。人間を知るということは、人間に対して関心を持つことから始まるのだと私は考えています。人間を関心を持って見つめることが出来ることが、看護の基本だと思いますが、そのためには人間としての自分自身を見つめることも大切だと思います。看護を提供する自分自身が色んな意味で豊かであり続けられること、その努力を怠らないことが、まずプロのナースの要件だと考えます。看護の対象者は、患者である前に一人の人間です。人間としての患者さんを前にした時、私は会話に悩むことが多々あるのですが、出来れば、患者さんと病気のことだけでなく趣味や生活のことなどを共有して楽しい時間を過ごしたいなと、出来るだけ患者さんと豊かな時間を過ごすため、自分も人間としての経験を積み重ねたいと思うのです。そういった関係の中から、人間に対する看護ケアが生まれてくるのだと私は考えます。

看護を展開する場合、人間の身体的、精神的、社会的側面の理解を深めることはとても大切なことだと思います。今まで私は、看護学の勉強を通して、人間の身体的側面、精神的側面、社会的側面の知識を学んできました。しかし、なぜか実際に対象者の方に看護を展開する場合、その知識を上手く使い切れないもどかしさを感じていました。それは、私の得た人間の身体的側面、精神的側面、社会的側面の知識が統合されて、看護を展開していくことができていなかったからではないかと思います。また、そういった知識を統合するための私の人間としての感受性が乏しかったためだと感じます。つまり、人間としての自分の体験を、他者に当てはめて考えることができない、それだけ、日常的に自分自身でさえも人間としての自分に関心を持っていなかったのではないかと思います。人間としての自分に関心の持てない私が、いきなり対象者の体験を感じて、アセスメントして、看護計画を立案、実施、評価するというのは、やはり無理のあることではないかと思います。病院で働いている時は、どうしても身体的側面に目が行きがちでした。どうしても人間の身体的側面、それも、医療依存度の高い医療処置の部分に看護の存在を求めて四苦八苦している自分がいました。心身のケアの大切さは頭では分かっていても、自分がその対象者の方の体験に近づいて、その方の気持ちになって感じることが出来ないから、どうしても提供する看護が点と点で分離しており、身体、精神とばらばらのものになっていたような感じがします。

人間は部分部分の総和で一個人ですが、部分のみケアしても満足が得られないように、断片的な知識の関わりでは、人間を対象にした看護で、満足のいくケアは提供できません。ナースは人間を統一体として捉えた上で、キュアではなくケアを行っていかなければなりません。そのためには、身体的に病を持った人がどのような状況に置かれ、どのように感じるのか、そして、さらには家族を含めその周囲の人にどのような影響を及ぼすのか、出来るだけイメージできる必要があるのではないかと思います。イメージするためには、ナースとしての自分の経験も豊かでなくてはならないし、日々の経験の中で色んな事を感じることの出来る自分が大切だと思います。ナースはとても勉強熱心な職種だと私は感じています。ただ、その勉強して得た知識を用いて、イメージを膨らましたりすることが苦手なのではないでしょうか。それは、その知識を自分のものとして取り込むことが出来ないからではないかと思います。つまり、もっと感受性を磨く必要があるように感じます。対象者の感じていることを素早く察知し、自分の知識を用いて、色んな工夫を凝らしてケアしていく姿勢を持てるナースに私はあこがれます。知識は、ある意味、患者さんの感じていることを自分も出来るだけ近づいて感じるための手助けになると思うし、そういった知識を駆使してなされるケアは、看護の知恵であるとも思うし、そういった知恵が働くということは、ナースのやさしさとして表現されてくるのではないかと思います。やさしい看護婦さんとよく昔から言われますが、やさしさは人間に対する気づきがなければ生まれてこないものだと私は考えており、そういった感受性、人間に対する関心、また気づきをアセスメントするための知識はナースに必要不可欠なものであると思います。


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