『私が考える「看護の専門家」としての要件』

                                           澤田 仁美

 「看護婦さんは、ほんとのところ何をしてくれるの」
 平成十二年三月、介護保険施行が目前にせまり制度の説明や訪問内容の再確認の為、私は何度も療養者宅へ足を運んでいた。その時の私は新しい制度の中で、いかによりよい看護を提供できるか模索中だった。四月一日からの契約の説明にうかがった際、二年間訪問看護を利用していた方からの一見愚問とも思える質問がこの一言だ。
 病院勤務時代、白衣を着ているだけで看護婦さんと呼ばれ、知識や技術を専門的に学ぶことが看護の専門性の追求だと考えていた。
「ほんとのところ〜」とは、今までの看護は何だったのか。在宅看護の現場で、改めて専門家としての看護の姿を探し始めることとなる。
 在宅の場では、主に独りのナースが訪問し看護を提供する為、判断力や責任がより問われる。その判断力や対処能力を裏付けるには、専門的で幅広い知識や技術の習得は、必要不可欠であると思う。しかし、それを用いるのは人間である為、どう用いるかということがとても重要であると私は思う。
 私が職場を移り、初めて担当したSさん。
Sさんは、79歳男性、約一年前に脳腫瘍を発症し、化学療法と放射線療法を行い、治療を終え在宅療養へ。ステロイド剤を服用していた所、下血を呈し再入院。潰瘍治療後、在宅へ戻ったところ私が担当させていただくことになった。
 訪問当初より、食事摂取状況にばらつきがみられ、徐々に日中うとうとすることが多く、家族からも心配する声が聞かれるようになる。その日も傾眠がちで、声かけをしながらマッサージをしていた私に長女が「やっぱりこのまま食べられなくなったら、点滴した方がいいですかねえ」と。私は、「ご家族としては、どう思いますか」と問い返すと「けれどAさん(別のナース)は、末期だから点滴の必要性はないでしょう。本人の苦しみが延びるだけという風に言ったんです。でも私は、食べられなくなる父をただ見ていることはとてもつらいのです」と。そこで私は、ご本人の苦痛をむしろ軽減するような、脱水の補正などの方法がある事を説明し、ご家族の希望を確認した上で主治医に相談した。あくまでも、ご本人の食思の看護を行った上で、必要な時という家族の意向と本人のQOLを考えた方向性となった。
 このケースで、私はケアの押しつけを受け手にしてはいないか、改めて反省させられた。私は、以前「〜しなければ」という使命感で失敗した経験を思い出した。
 それは、ホスピス創設スタッフとして看護師四年目の私は、変な使命感を燃やしていた頃のことである。肺癌末期の男性を、片時も離れず看病される奥様がいた。ご家族の意向で、民間療法を行っていた。それは、胃瘻から一日五回三〇〇〜五〇〇ccずつ、有効とされる液体を注入するものだった。その液体の注入直後、患者さんは大きく咳き込み、食道を逆流したと思われる液体を、鼻や口から吐き出し、肺音まで怪しい状態となっていた。見かねた私は、奥様に減量するか中止するかということを提案した。すると、連日連夜付き添いやつれた肩を震わせ、「私がただ一つだけしてあげることを奪うのですね。所詮、あなたには私の気持ちなんて解るわけないのよ」と泣きながらに私に訴えた。
 ご本人にとって良かれと思った私の行為は、奥様を深く傷つけてしまう結果となった。下手な知識や技術や経験、そして使命感で、気づかずに残酷な状況へと追いつめてしまうことがあることを痛感した。
 私は家庭を持ち、子育てをするようになり、初めて娘以外の、妻や母という気持ちを実感するようになった。そして、その役割に伴って、いろいろと心境が変化することを知った。今になり、母が幼い頃からしつけとして「思いやりをもった人になりなさい」と口癖のように言っていた事の意味をよく考える。
 私は看護という仕事が大好きである。人と接することも以前は苦手だったが、今は大好きである。人と人とは、双方向の関係であると私は思う。それは、看護する人、される人でも同じだと思う。一方が与えるだけということではないと思うのだ。だからこそ、看護には、「思いやる心」が重要だと思う。今の私には、これを看護の心というのか、人間愛というのか, よくわからない。まだこのような抽象的な概念でしか、看護師の大切な要件を表現することができない。
 私は、看護のプロになりたい。私のできる看護を胸を張って伝えてゆきたい。しかし、今の私は「想いはあれど・・・・・・」という状況である。夢を持ち、強い意志を貫き「ほんとうの看護師」を目指し努力してゆきたい。



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