我が人生・我が看護観 国分
アイ Kokubun
Ai
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vol. 1
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ふるさと |
2002-2-19
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旧制高等女学校卒業後上京し、寮生活の長かった私にとり、ふるさとは心の底にしっかり宿った魂のようなものだと思います。そして今や、それは最善なものであり真実である美しいものに昇華され、ふるさとの山にむかいていうことなしの啄木の心境なのです。
盆暮れに大移動を繰り返す多くの日本人にとっても同じ魅力をもつ所なのでしょう。
しかし、ふるさとに住み続ける妹には私程の感慨はないようですし、東京育ちの隣人高橋さんは、小さい時訪れた父親の生地を少し懐かしんでいる程度のようです。
『西にそびゆる安達太郎のよろず世までも動きなき……東をめぐる阿武隈の清き流れの千代かけて……』(一部略)と歌った小学校歌。そうです、智恵子抄に歌われた本当の空のある所、二本松は母のふるさと。
私が育ったのは隣の本宮町外れ、公園下と呼ばれた所です。公園と呼ばれた高さ百米程の裏山は、巾広い道が蛇行して山頂の広場に続き、片側に桜並木、片側に石仏が間を置いて立っていて広場も桜で囲まれていました。
小学校の春の運動会はこの広場で行なわれ、町中の者がござを抱え、重箱に御馳走をつめ、先を争って見晴しの良い広場の上の土手に陣取ったものでした。生徒達は運動着、紅白の鉢巻、日の丸の旗を持って、学校から広場まで行進しました。それは家族ごとたのしむ運動会と花美を兼ねた町民の年中行事でした。
サクラガサイタ、サクラガサイタ、ノーニモヤマニモサクラガサイタ、
サーイタサクラニアサヒガサシテ、ノーヤマイチメンハナノクモ。
やぐらの上に陣取った賑やかな楽隊の伴奏で花吹雪中で遊戯をした1年生の日を思い出すと、私は只々無心になってしまいます。
昼休みの時飛んで行って母の待つござの上で食べた三角のあぶらげずし、茹で玉子、鰊の煮付け、畔道で摘んだ芹のごまよごし、みな美味しく口いっぱいに頬ばっていました。
この山の裏側は山下に石雲寺という古寺があり、斜面は広場の下まで段々の墓地になっています。我が家の墓地は、広場のすぐ下の高い所、隣は山畑、梅の林になっていて、春のお彼岸の頃はつぼみがふくらんでいました。そして光る阿武隈川の流れを見下ろしています。ここに父母同胞が安らかにねむり、いずれ私もふるさとの土に帰るのです。
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vol. 2
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遠い水車小屋の音 |
2002-3-1
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ゴットン、ゴットンと、緩やかな音が夢現に聞こえてくる。いつかどこかで聞いたような音と思いつつ、少しずつ目覚めていた。あの音は、いつも聞こえてくる、マンションのわが部屋の下を通る井の頭線の徐行時の音の筈。なのに、けさは少し違って聞こえたのである。「春眠暁を覚えず」かと考えながら寝返りを打って、ふとあることに思い当たった。そうだ、私が高女時代まで過ごしたふるさとの家で聞いた水車の音なのだ。50年ぶりで聞こえてきた、懐かしい音だったのだ。
ふるさとの我が家は、南北両側に川が流れていた。南側は、阿武隈川に注ぐ支流の枝沢川で巾5メートルほど、板橋がかかり国道に通じ4軒の家で利用していた。その川の200メートルほど上流に堰がある。小さな滝となり、流れの一部が本流より少し高い位置で、1メートル巾位の小川となって我が家の北側を通り、お向かいの精米屋の水車を回し川下につづく。この上の小川は、ずっと昔に人工的に作られた掘のようであり、土手は山吹のような潅木と丈の長い雑草で覆われており、更に下流にいって、金魚と鯉の養殖池に注いでいた。
ギイーゴットン、ギイーゴットンと、水車の音は夜となく昼となく我が家の者の耳に入ってきた。そして、一帯に大雨が降ると、川は水量を増し、ごうごうと音を立て水車もギイゴトン、ギイゴトンとテンポを速めた。
冬は水が涸れることなく、春先には水車の車輪についた氷が溶けて流れてきた。水車の20メートルほど下に土橋があり、ここで両手を真赤にしながらその氷をすくい上げた。兎の形!大黒様の形!と氷片を早春の空にかざして、寒さも忘れ、知る限りの物の形にたとえながら子供なりに自然の造形の妙に声をあげていた。
夏、上流の水田に水を取り入れる頃になると、川の水は急に涸れ、子供たちは上の小川で蜆や蟹をとらえ、川遊びに夢中になった。ある時、川下から登ってきた鯉じっち(じいさん)に「こら−、わらしどもー、水濁すなー」と大声で怒鳴られた。そして、流れの音も水車の音もぴたりととまると、一つ蚊帳の中で母は「流れがとまると静かすぎてかえって眠れない」とつぶやいていた。それは、子供心にも無気味な静けさに思えたものだった。
久しぶりに春暁の思わぬ音に出合い、あふれでる遠いふるさとの思い出に、私はもう一度寝具を引き寄せ、夢を追うように考えていた。私の心のそこにひそんでいた水車の音は、成長期の私の子守歌だったかもしれないと。
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vol. 3
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父の日の丸
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2002-3-15
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木々の緑とは対照的な赤と白。私の意識にある日の丸は、故郷の家の玄関に始まる。
裏山に続く木立と小川に囲まれた隣近所4軒の屋敷のなかで、唯一月給とりの父は、祝祭日には必ず、出勤前に我が家の小さい門口に日の丸の旗を立てた。父の日の丸に誘われるように他の家にも旗が立つと、周りの木々の緑をより濃くするように美しく映えて見えた。家の裏山に続くあたりに杉の木が多く、巨木もあった故であろう。
1メートルくらいの旗竿は2つに折れ、中間が差し込み式になっていて、先に金の球がつき、白黒のだんだらになっていた。旗は木綿地だが、日の丸は勿論、鮮やかな赤だった。普段は竿にくるくると巻かれ、木の箱に納められ、何時も床の間の端に置かれていた。
出す時も、しまう時も、父は丁寧に扱った。
しかし、何故か傍で見ている子供たちに話し掛けることがなく、晴れやかな顔だが孤独な作業に身を入れているようで、雛かざりを出し入れする時の顔とはだいぶ違って見えたものだった。
その後、日の丸は私にとり、何時も集団のなかで国旗掲揚という儀式や式場で、遠く仰ぐばかりのものとなった。そして敗戦後はますます疎遠になり、身近に見ることも少なくなった。
時移り、日の丸は映像のなかで、オリンピックやヒマラヤ登頂などの、日本人の栄光の印として見られるようになった。シンプルな日の丸は美しく、眩しく、日本民族の代表として掲げた人の心情を思い感動した。
15年程前、スイスに旅をした。赤十字看護婦である私は、赤十字発祥の地であるこの国にも、旗にも親しさがあった。そして行く先々で白十字と州旗のはためくのを見て、改めて国旗に誇りを持つ国民のいることを知り、考えさせられてしまった。
何時か沖縄で女子学生が日の丸を焼く映像を目にした。衝撃だった。自分の生れ育った国家のシンボルを否定する。なんと不幸な悲しい事実であろうか。その時私は父の日の丸を思い出していた。
人それぞれの日の丸への思いがあろう。
総てが軍国主義につながるといえるのだろうか。民族の栄光も汚辱も共にしてきた日の丸。事実を事実と互いに認めあい、過去を受けとめていくことこそ、過ぎし大戦で、あの旗のもとで倒れた人々への鎮魂ではなかろうか。私にはそう思えるのである。
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