我が人生我が看護観   国分 アイ Kokubun Ai


 
 vol.13
  O大使のこと
 2003-2-21
 
 

 O氏は、かつて駐伊大使もされた高名な外交官であった。もう20年も前のことであるが、当時私が婦長をしていた病棟に、胃癌で入院してこられた。70歳代だったと思う。

 主治医から、病名も死の予測も本人家族ともに承知であること、点滴注射で体力を保持させながら、死期が近づいたら自宅に戻られる予定であることを告げられた。

 食欲が殆どなく、食べないせいか消化器の症状や痛みなども少なく、毎日一定量の点滴を受けるのみの治療であった。面会が制限され、家人が訪れるほかは、つぎつぎと届けられる沢山の花に囲まれて静かに寝ておられた。

 見舞いに贈られた花は、いずれも見事で珍しく、鉢植えや切り花などに、氏の生きていた人生を語るような華やぎがあった。

 「アラ、また珍しいお花ですね。なんて名でしょう」「婦長さん、お花のニューフェースですよ」。庭木を切って届けられたらしい、白いライラックの枝も床頭台を飾っていた。フランスではリラと言うことも教えていただいた。

 1日数回も訪室する私は、O氏の花を共に楽しませていただいていた。夫人が、私と同じ福島県の出身で、会津藩士族の出であることなどが話題になったが、病気について語ることは殆どなかった。

 ある日訪室すると、O氏から話しかけてこられた。「婦長さん、ぼくはねー、いつも○○と話すんですよ。我々は、天皇が人間として、本当にご立派なお方だから、どんな外国の方が見えても恥ずかしくないと・・・・・・」。○○とは、やはり高名な外交官の名であったように覚えている。

 思いもかけぬ天皇の身近な話題に私は返す言葉を見つけることができないでいた。しかし、そう語るO氏のお顔は、痩せて小さく、殆ど血色のない渇いた皮膚なのに、和やかで安らぎがあり、私の答えより、話すこと自体に満足しておられる様子だった。そして、天皇のお人柄が、私にも伝わってくるように感じられたのである。

 その数日後、O氏に退院の日が訪れた。夫人に付き添われ、絹地の厚い布団に移された氏の躰は更に小さく見えた。玄関までお送りした主治医、看護婦に、氏は閉じていた瞼を開き、目礼を送られた。私達は、病院をでる寝台車に深く頭を垂れていた。静かな別れであった。その後私は、今は亡き昭和天皇の映像や記録に出逢うと必ずその後にO大使の温顔が浮かんで見えてくるのである。死を迎えてのあの安らぎと静謐。この世でなすべきことをなし終えた人の死はかくなるものなのか。氏は私にとり患者としてだけでなく、人間として忘れ得ぬ人なのである。

 
 
vol.14
  ある父と子の挽歌
2003-1-24
 
 


 「婦長さん!31番室に行ってみて下さい」。池谷さんがナースステーションに飛び込むように戻るなり言った。それ以上の言葉は出ないといった様子である。

 この部屋の患者だった1歳半の男児は、先ほど両親の前で息を引き取り、医師から死亡の宣告を受けたばかりである。

 何かあったと直感し、31番室にとって返してドアを開けた。瞬間、私は異様な状況に立ちつくした。

 病室は、治療用の物品も片付けられ、私物もほとんどなく、大人用のベッド一つの殺風景な様である。そのベッドの回りを死児を抱いた若い父親が歌をうたいながらゆっくり歩いている。

 その歌は何時かどこかで聞いたような、多分この父親の出た大学の校歌か寮歌のように思えた。しっかりとわが子を抱きかかえ、やや低い声で宙を見つめるように、歌に合わせゆっくりと歩を進めている。入室した私の存在など眼中にない。池谷さんは、死後の処置の準備をしてこの光景に出会ったのであろう。

 この子は、若い母親の不注意から台所で煮え湯を咽頭に受け、火傷し救急で入院してきた。咽頭の腫れで呼吸が困難になり、集中的な治療を受けるため私どもの大人の外科病棟の個室に移されてきたのである。ふっくらとした色白の愛らしい男の子、この両親の初めてのわが子であった。

 入院以来4日間、若い母親はみずからの不注意からまねいたわが子の苦痛、次々と重なる治療にわが罪の苦悩に耐えるように一時もベッドのそばを離れることがなく、ほとんど寝てもいないようであった。

 銀行員か商社マンらしい、端正で折り目正しい若い父親が、勤めの合間を縫って病室を訪れていた。何時も、緊張した医療陣の後で口数少なく控え、妻を支えていたようである。

 そして、臨終近く駆けつけたその父親が、亡くなって初めて連絡のためわが子のそばを離れた妻の留守に、わが子を抱いて歌い始めたのである。私はあふれ落ちる涙を押さえながら部屋を去り、ステーションのテーブルを囲み池谷さんと居合わせた2,3人のスタッフと共にただただ泣いてしまった。

 その歌には、父親の今までの人生が凝縮され、命短く終えたわが子との別れに、父としての愛の総てをこの歌に託そうとする想いがこもっていた。それは、この父と子の別れにもっともふさわしい挽歌に聞こえたのである。

 それにしてもあの歌は何であったか、旧制高校の寮歌が沢山あることを知ったが、“あゝ玉杯に”でもなく、“都ぞ弥生”でもなかった。哀調のある古風な歌だった。時々あの父と子を思い出し、あの歌に逢いたい思いにかられるのである。 

 
 
vol.15
  都築院長のこと
2003-2-21
 
 

 週1回の院長回診の日である。本来なら私は、外科病棟の婦長として院長回診につかなければならないのだが、患者として回診を受ける側になっていた。

 今回で2度目の胃切除術を受けた私は、偶然に自分のカルテを見てしまい、7年前の第1回の手術の時から胃癌だったことを知ってしまった。今度は再発、私は死を予測し、知らないで過ごした7年間を思い起こしながら、心の整理がつかないでいた。カルテを見たという事実は院内の一部でも話題になったらしい。院長にも報告されたようである。

 「今日は良いお寝巻を着ているね」院長は病室に入るなり、私の顔を見ながらそう言われた。私は、何とも言えぬ優しさを湛えた院長の目を見つめながら、「ハイ婦長会からのお見舞いです」と答えた。「ハハァ。友情のお寝巻ですね」。

 私は、あの院長からこんな言葉を聞くとは思いもかけず、また「ハイ」と答え、今度は続ける言葉を失っていた。普段の院長には滅多に使われそうもないが、私達には月並みな言葉、それを、その時の私という患者の心情に合わせて声をかけて下さったのだ。院長の優しさが、弱くなっていた私の心に染み通ってきたのである。

 この手術から立ち直り、私は再び職場に戻り、院長回診につくことができるようになった。復帰直後の回診の時だった。口腔外科患者の包帯交換の介助についていた。患者さんはベッドの上に座っており、院長の背は高い。私は鉗子をとり薬品やガーゼ類の受け渡しを始めた。都築院長の静かな声がする。「婦長さん、こちら側に来なさい。今頃は手を伸ばすと電車の吊り革につかまっても、創は痛いものだ。」確かに手を伸ばすと腹壁も伸び創は少し痛む。私は、院長の不意の言葉に思わず声がつまり、涙が出そうになった。普段の包帯交換でも、手のかかる腹帯をしめる時、院長は必ず反対側から手を伸ばし手伝って下さった。

 それは看護婦への思いやりと同時に医師としての患者さんへの責任といたわりだったのだと思えたが、ここまで病人の置かれている状況や気持ちのわかる医師に余り出会ったことはなく、都築院長は臨床医としても凄い人だと思っていた。

 しかし普段の院長は峻厳な方だった。在任中病院の労組運動は頂点に達しており、毎日のようにスト、団交が繰り返されていたが、院長が出席されると、理路整然とした対応に組合側は一言も反論できなかったと聞いた。

 医師には医療者としても人間としても高い資質を要求され、医学教育者としての姿が見られた。ある時、看護婦からも余り信頼のなかった医師が叱られているのを見てしまった。彼は首を下げ、背を丸め、震えあがっていた。院長の形相は恐ろしかった。

 しかし、真面目で忙しく立ち働いている看護婦には無類に優しく、婦長会の会合に院長が出席されると、会は和やかになった。

 お年玉つきの年賀はがきの寄贈を受け、癌病棟が増設されることになった時のこと、病院医療の最前線で働き、患者の立場を最もよく知る看護婦の意見を取り入れたいという院長の方針で、数人の婦長が建築委員会のメンバーをなった。「風呂は両側から介助できるように洋式の寝風呂に」「廊下には患者のつかまり歩きと、患者輸送車で壁に傷がつかないように横板を」「緊急避難のためにベランダの個室間の仕切りはないほうがよい」など、青写真は訂正され、建築完成後看護婦の意見は殆ど採用されており私達を喜ばせた。院長の配慮だった。

 第1回のナイチンゲール賞受賞者、山本ヤヲ氏の病院葬の時の院長弔辞は、在来の方を破る「山本ヤヲさん・・・・・・」と祭壇の遺影に親しく語りかけるものだった。故人の業績を讃えた真心のこもったねぎらいの言葉は、私達後輩や多くの看護関係者に感動を与えたのである。

 医学者としての院長は、あのビキニ環礁の放射線障害の治療で国際的にも名が通っている。凛とした風貌、長身で堂々としたスタイル、ピタリと身についた洋服。ある時、数人の看護婦で病院のミスター日赤は誰かという話題になった。結果、老いてもなお、ミスター日赤は断然都築院長だった。

 国際的な仕事で渡米され、帰国後、アメリカの病院、大学、研究施設などについて、院長自らが撮影された、その頃まだ珍しかったカラースライドで講演をしていただいたことがあった。学長をされていた日赤短大の看護学生、研修生、院内看護婦が対象だったが、分かりやすく、楽しく、院長のお人柄と共に、その頃のアメリカの文化、進んだ医療事情などに魅了されたことを覚えている。

 惜しまれつつ亡くなられた都築院長、遺影が歴代院長と共に病院会議室に飾られるようになってしまった。峻厳さと慈愛に充ちた温顔と言うべきか、婦長会議の時、私の坐る位置の真向いになった。じっと見上げていると涙のにじむような懐かしさがこみ上げてくる。

 だいぶ後になって、院長付きの運転手、野口さんのお話を聞いた。彼は歴代の院長に仕えてきたが、都築院長を最も敬慕していたのだという。そして亡くなられて以後、毎月の命日には、青山墓地にある、院長の墓参を欠かさないでいるということであった。

 野口さんの誠実なお人柄と都築先生とのエピソードに、私はむべなるかなの思いがした。それを知った直後、私は野口さんに案内していただき、院長の墓参を済ませることができた。

 私の看護職に在った五十数年間、数多くの素晴らしい医師との出会いがあったが、一患者、一看護婦として、都築先生は私の最も尊敬する医師となった。