我が人生我が看護観   国分 アイ Kokubun Ai


 
vol.19
  時雨るれば
2003-06-27
 
 

 待ちに待った定年退職の日は満65歳になった翌年の3月だった。仕事から解放されると思うと天に向かって「万歳」と叫びたくなる思いだった。

 自由になったら、時間ができたら、やりたいことが山ほどあった。だが、心はやれど、行動に移せたのは、退職早々の予定だった胆石症の手術を済ませて体調を整え、定年と退職後のご挨拶などもろもろのきりをつけた後。9月に入っていた。

 10年来細々と続けていたフランス刺繍はそのまま続ける一方、近くのカルチャーセンターで、朗読、俳句、カラオケの3つの教室を選び申し込んだ。カラオケは是非習いたいという年来の2人の友、高橋さん、渡辺さんの為に、暇ができたからと教室を探し当ててあげたのであるが、演歌はあまり趣味じゃないからと私は遠慮していた。しかし「いい日旅だち」や「ろくでなし」も習うよ・・・・・・と聞かされ、それではと仲間に加わった。

 朗読には目的があった。目の見えない方々に新聞、書籍類を読んだり、テープに吹き込むボランティアをやりたいとかねてから考えていたからである。しかしこの2つは始めてから3ヶ月目で風邪を引き、大切な咽頭を痛め、欠席の揚げ句とうとう教室に戻らないでしまった。

 朗読だけはどうしても続けたかった。講師はNHKラジオで長い間「私の本棚」を担当して居られた樫村浩子先生だった。相当なお年の筈なのに、若々しく声も昔のまま。向田邦子や漱石の作品の朗読は楽しかった。しかし、長い間教壇で講義をしてきた自分の力がこの程度だったかと思い知らされた。方言の痕跡もこの年まで残っていたし、なぜか何時のまにか大きく力強い声が出なくなっていた。

 俳句には。何時か落ち着いてじっくり取り組みたいという思いが残っていた。以前、短期間だったが、中村汀女先生門下の句会に在籍していたことがあり、今回の講師の伊藤淳子先生も中村先生の門下生で、古い角川文庫の『歳時記』だけは後世大事にもっていた新入会員の私を歓迎して下さった。

 しかし、入ってみると講師以下全員主婦であり句作の年月も重ねた女性ばかり、句の中に夫、子供、孫があらわれる。家庭を離れ、看護集団で寮生活の長かった私には、この先輩の方々とどこか生活感覚に違いがあった。

 風邪でカラオケも朗読も休んでいた時、俳句の先生から一枚のはがきが届いた。

 「時雨るれば 刺繍の指のひたすらに」。表に私のこの句が美しい筆蹟で書かれ、裏半分は句会への出席を促す文面だった。だが、私は心を残しながら、埼玉衛生短大での同僚貝塚みどりさんと共著の『病人のお世話のコツ』という本を贈り、丁寧にお詫びして教室を去ってしまった。

 こんな筈ではなかった。充実した定年後のプランは振り出しに戻った。そして、私は、仕事の続きで看護学校の非常勤講師、介護福祉士の制度化に伴う労働省の関係団体のお手伝いと、また元の仕事に引き戻されてしまった。なぜか生き甲斐を感じながら・・・・・・。

 「時雨るれば」の句は小さな額に入れ先生の美しい筆文字を楽しむばかり・・・・・・。ほんとうに心にゆとりがでたら、またじっくりと俳句を楽しみたいという思いを残しながら。

 
 
vol.20
  私の名はアイ
2003-08-08
 
 

 私の名はアイ。小さい頃、家族や近所の人にあんこちゃんと呼ばれた記憶もある。命名の由来は聞いたことがない。妹はチイ、弟は昭和に生まれた長男だから昭一、下の妹は三女で4番目だからミヨ。わが父母のわが子への命名の動機は至って単純だったらしい。

 青春時代から、私はこの名が少し嫌いになっていた。アイ=愛、そして男女の恋愛エロスの愛を意識しはじめたからであろう。「君の名の由来は?」と若い海軍軍医さんに聞かれ「アイウエオの先頭です。父が小学校で一番先に教えてもらう字にしてくれました」などと適当に答えていた。

 太平洋戦争で海軍病院船暁部隊に召集になり100余名が4班に分けられた時、私は第2内務班所属になった。部屋に落ち着いたとたんに、先輩の唐津あいさんが、「大変よ、2班にあいが3人いる」と叫んだ。と、すかさず1級下の永井愛子さんが「私は愛されるの愛」と叫び、追い掛けるように唐津あいさんが「私は愛するの愛」と応じた。そして反応の遅い私は、「それじゃー私は博愛のアイにするか」ということになり、2班の3愛が決まりお互いに「愛するの愛さん」などと気軽に呼びあっていた。

 戦後十数年たち、昔を懐かしみ暁会の集まりが持たれるようになった。殆どの人は結婚という人生の節目をこえていた。が、そこで私が気付いたこと、何と、3愛はお互いに宣言したとおりの人生を歩いていたのである。永井さんは病院船で結ばれた唯一のお幸せカップル、山田調剤員に愛され結婚された。唐津さんは地域で看護婦としてご活躍中、年下のご主人を愛し結ばれ幸福なご家族とのこと。悔しいことに、私はそのまま博愛を旗印とする赤十字病院の看護婦、独り身の寮生活だった。あの時私も「愛し愛されるアイー」と慾深く大声で叫んでおけばよかったーと本気で考えたものである。

 「出しゃばりおよねに手を引かれ、あいちゃんは太郎の嫁になる」という歌が流行った時代があった。生れ故郷へお墓参りに弟の家族がいった時、私の小学校の同級生中野イチさんに逢った。「アイちゃんは今どうしているい?」と聞かれ、剽軽な弟は「太郎の嫁になったわい」とお互い尻上がりの本宮弁で話してきたと笑っていた。我が生れ故郷本宮の言葉はやたら語尾に「い」がつき尻上りのイントネーションである。

 そして私は、とうとうでしゃばりおよねにも太郎にも出会うこともなくアイ変わらずお一人暮らし。

 看護教育に専念するようのなり、学生は陰で私を「アイちゃん先生」と呼んでいたようだが、その学生に看護観を問うと多くの学生は「看護とは愛である」という。ここで、私の名はアイ=愛だが、看護における愛とはいかなる実践を指すのかと真剣に考えさせられるようになった。埼玉県立衛生短大を定年退職した時の看護学科教員の寄せ書がある・・・・・・。まず千野静香助教授は新訳聖書の中の[コリント]13章の4から「愛は寛容であり、愛は情深い。またねたむことをしない。愛は高ぶらない・・・・・・すべてに耐える」と書いて下さった。その他何人もの教員が私への別れの言葉の中に愛という言葉を使って下さっている。この頃になって、私は自分の名が好きというより意味のあるものとして真剣に考えるようになっていた。

 平成元年72歳、私は余りうれしくない病名のレッテルを貼られた。自分でも驚くほどの貧血、そしてこの病気の特徴として、血中のIgGが増加しているという。しかし私の臨床経験は殆ど外科系、当初私はこの免疫に関わる疾患についての知識は全く無く、「私はアイばぁばぁなのにアイじぃじぃが増えたんですって」などと友人に話して笑っていた。だが今私は、毎月の血液検査でIgGの数値に一喜一憂、目下のところアイばぁばぁはアイじぃじぃに対決中である。そして、看護を受ける身からも、愛について考えさせられている。

 私の名の愛とは何だろう。今思う。愛とは他者に対する善意の限りない関心ではなかろうか。無関心、無責任、利害打算に真の愛は成り立たない。愛は暖かく優しく何よりも真実の行為である。時に深く、広く、大きくありたい。看護における愛とは、それに、知的関心、プロとしての責任を伴うものと思う。そう言えば、ナイチンゲールも3つの関心と言っていた。「症例に対する理性的な関心。病人に対するもっと強い心のこもった関心。病人の世話と治療に対する技術的な関心」と・・・・・・。

 人間は、愛のある世界に生きることこそ最高の幸せなのではなかろうか。今私は多くの方々の善意の関心を受けて、私なりの幸せな日々を過ごさせていただいている。そして生きていることだけでも感謝のこの頃である。我が名はアイ。考えるととても良い名だと人生の終点近くで自分の名が好きと言えるようになった。

 
 
vol.21
  靴とのお付き合い
2003-09-03
 
 

 初めて洋服を着せてもらい、靴を履いたのは小学1年の夏だった。白いゴム製の全く飾りのないパンプス型で、軽くて履きやすかった。

 革の靴を初めて履いたのは、女学校に入ってからである。父の知っている裏町の靴屋につれてゆかれ、注文したものである。女学生らしく、甲に横一のベルトがついていたが、何となく不恰好で重く、履きにくかった。底が減ると革を貼ってもらい、4年間履き続けた。

 綺麗好きでお洒落だった父は、いつも自分の靴を自分で磨き、ついでに私の靴も磨いて一緒に並べてあった。時々「自分で磨け」と文句を言いながら、結構靴磨きを楽しんでいる風で、時に私は付き合わされた。

 日赤の看護婦養成所に入り、あの制服制帽に編上靴を履くことになった。重くて着脱が大変だろうと案じたが、思いの外、足に合っていて、長い紐を左右に反転しながら、手早く履く術も上達した。

 卒業後、日赤看護班に召集され、病院船の着く港、大連、香港、サイゴン、マニラ、シンガポール等、この靴で異国の土を踏みしめた。

 終戦後、人並みの婦人靴を履くようになって、どうも、吾が足と靴との相性は良くないようだとわかってきた。小児病棟の婦長だった頃、私の白い靴の勤務靴を見て、浅草の靴屋の息子の小沢ドクターは、「婦長さんは、田舎で田のくろを裸足でペタペタ走り回っていたんだろう」と悪口を言った。生来のだだっ広い甲低に加えていつのまにか外反母趾の症状まで出ている。

 私はまともに、ハイヒールなるものを遂に一度も履かなかった。やや高めの踵でも、見た目にこだわり無理をして履いてみて結局足に合わない。靴に履かれるという感覚が全身を襲い、堪えがたい苦痛をともなう。以来、靴は銀座ヨシノヤの、EE、ヒールの低い22半と決めていた。長く使っているシューズキーパーは、ヨシノヤで見つけた。ピンク、ブルー、赤等の小花模様の木綿生地で作ったキーパーはつま先にフィットし、横に広がって無残に型崩れした吾が靴も、買った時のようにシャンとした。

 先日テレビで妖しげに美しく魅力的な女優、毬谷友子さん、父親の劇作家矢代静一氏がヨシノヤの方と知って嬉しがったりしている。

 60代に入った頃、新潟で保健婦をしていた清水さんが初めてクラス会に赤い靴で出席した。あの映画『赤い靴』のようなものでなく、渋い赤、ローヒール、柔らかい革の靴は彼女に良く似合っていた。あんな色の靴、一度履いてみたいと思ったが果たさずじまい、70を越えた今、ヨシノヤとは少し縁遠くなり、ジョギングシューズなどもっぱら歩きやすく、軽くて安全なものを選ぶようになった。黒いローヒールの小さく丸い、シューズキーパーで澄ました靴の出番は少なくなってきた。