待ちに待った定年退職の日は満65歳になった翌年の3月だった。仕事から解放されると思うと天に向かって「万歳」と叫びたくなる思いだった。
自由になったら、時間ができたら、やりたいことが山ほどあった。だが、心はやれど、行動に移せたのは、退職早々の予定だった胆石症の手術を済ませて体調を整え、定年と退職後のご挨拶などもろもろのきりをつけた後。9月に入っていた。
10年来細々と続けていたフランス刺繍はそのまま続ける一方、近くのカルチャーセンターで、朗読、俳句、カラオケの3つの教室を選び申し込んだ。カラオケは是非習いたいという年来の2人の友、高橋さん、渡辺さんの為に、暇ができたからと教室を探し当ててあげたのであるが、演歌はあまり趣味じゃないからと私は遠慮していた。しかし「いい日旅だち」や「ろくでなし」も習うよ・・・・・・と聞かされ、それではと仲間に加わった。
朗読には目的があった。目の見えない方々に新聞、書籍類を読んだり、テープに吹き込むボランティアをやりたいとかねてから考えていたからである。しかしこの2つは始めてから3ヶ月目で風邪を引き、大切な咽頭を痛め、欠席の揚げ句とうとう教室に戻らないでしまった。
朗読だけはどうしても続けたかった。講師はNHKラジオで長い間「私の本棚」を担当して居られた樫村浩子先生だった。相当なお年の筈なのに、若々しく声も昔のまま。向田邦子や漱石の作品の朗読は楽しかった。しかし、長い間教壇で講義をしてきた自分の力がこの程度だったかと思い知らされた。方言の痕跡もこの年まで残っていたし、なぜか何時のまにか大きく力強い声が出なくなっていた。
俳句には。何時か落ち着いてじっくり取り組みたいという思いが残っていた。以前、短期間だったが、中村汀女先生門下の句会に在籍していたことがあり、今回の講師の伊藤淳子先生も中村先生の門下生で、古い角川文庫の『歳時記』だけは後世大事にもっていた新入会員の私を歓迎して下さった。
しかし、入ってみると講師以下全員主婦であり句作の年月も重ねた女性ばかり、句の中に夫、子供、孫があらわれる。家庭を離れ、看護集団で寮生活の長かった私には、この先輩の方々とどこか生活感覚に違いがあった。
風邪でカラオケも朗読も休んでいた時、俳句の先生から一枚のはがきが届いた。
「時雨るれば 刺繍の指のひたすらに」。表に私のこの句が美しい筆蹟で書かれ、裏半分は句会への出席を促す文面だった。だが、私は心を残しながら、埼玉衛生短大での同僚貝塚みどりさんと共著の『病人のお世話のコツ』という本を贈り、丁寧にお詫びして教室を去ってしまった。
こんな筈ではなかった。充実した定年後のプランは振り出しに戻った。そして、私は、仕事の続きで看護学校の非常勤講師、介護福祉士の制度化に伴う労働省の関係団体のお手伝いと、また元の仕事に引き戻されてしまった。なぜか生き甲斐を感じながら・・・・・・。
「時雨るれば」の句は小さな額に入れ先生の美しい筆文字を楽しむばかり・・・・・・。ほんとうに心にゆとりがでたら、またじっくりと俳句を楽しみたいという思いを残しながら。
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