我が人生・我が看護観 国分 アイ Kokubun Ai |
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vol. 4
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母の歌 |
2002-3-28
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母は明治32年生まれ、それでミジと名付けられたという。 |
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vol. 5
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父の帰り路 |
2002-4-14
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ポーッと停車場を発車する汽笛の音が、冬の空に遠く幽かに聞こえてくる。午後7時前後、父の降りた東北本線の小さな本宮駅を発車した合図である。と、とたんに我が家の子供5人が駅を後に父と共に歩きだす。ただし、家のなかで。口の中で。
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vol. 6
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「ラ・マルセイエ−ズの思い出」 |
2002-5-3
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フランス革命二百年にあたる昨年、盛大なイベントの模様がパリからテレビ放映されていた。 マルション マルション カンサン アムピュ− ア−プル グノーセーション (私の記憶のまま)、思わず唱和していた。 ……マゼランこの海を横断してより…… と、今も記憶している台詞はこれだけである。 それにしても、あの時代にあのように難しいインターナショナルな劇を強行させた桑原先生の意図が今頃になってやっと分かったような気がする。思えば5年次担任の大島先生は会津若松の連隊に短期入隊され、帰られて早々だった。講堂で私たちの練習が始まり、日本の国歌を歌うと、さっと姿勢をただし、担任の頃とは違った近寄りがたい威厳さえ感じさせられたものである。 昭和7年、そろそろこの国の政治は右よりの方向に歩み始めていたのであろう。あれは、大正デモクラシーに生きてきた桑原先生の主張、もしくは抵抗の手段だったのかもしれない……。
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