我が人生・我が看護観 国分 アイ Kokubun Ai |
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vol. 7
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祖母の語る歴史 |
2002-5-30
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父が末っ子であったためか、私が生まれた時は、父方の祖父母は亡くなっており母方の祖母だけが残っていた。祖母に私が初めて出会ったとき、祖母は母の長兄の家の離れの座敷で机の前に座っていた。 昭和29年、84歳で祖母はこの世を去った。最後に母と見舞いに訪れたとき、まだ意識のあった祖母は、私の差し出す吸い呑みからカルピスを美味しそうに呑んでくれた。 「刀自は旭村、百目木の豪家渡辺半右エ門の二女とし生まれ、(中略)・・・氏はまた松島に遊んだ浮世絵師広重を迎え、逗留数カ月、百目木八景を作製せしめました」とあった。私はかつて日本橋高島屋でこの版画を見たことがあった。百目木という記憶のなかにある地名が私をとらえたからである。更に見たことのない祖父について「一獲千金を夢見て瀬戸内海の要港糸崎の埋立工事や常磐鉄道工事、三春煙草専売工場の建築、一方では郡下3位の143個の「折返し製糸業」を経営するなど手馴れぬ事業に手を出しましたので・・・云々」とあり地方史に残っていそうな興味のある人物も登場してくる。
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vol. 8
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我がペンペン草への思い |
2002-7-17
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よく見れば薺花咲く垣根かな 芭蕉のみちゆく紀行のおり、我が故郷の町の近くでの俳句と小学校の頃聞いた記憶がある。 子供の頃、草萌える春、陽ざしが暖かくなると、待ちかまえたように、妹や近所の子達と、小 摘み草の頃のなずなは、タンポポに似たぎざぎざの葉だが、より繊細で小さく、中心から四方 小刀で土の中の白い根を切ると、土を離れ、くるりと葉裏にまいて小さくなる。家に持ち帰り、 このなずなを盛大に摘んで満足した想い出がある。栃木県、自治医大の教職員住宅に住 食べられる野草は多いが、私はなずなが一番好きである。その後八百屋で買った葉菜2種 ところで私は、頚椎損傷で手足の自由を失い、筆を口にくわえて草花を描かれる星野富弘 成長して三角の実をつけたペンペン草がしっかりと描かれ、傍に詩がある。 神様がたった一度だけこの腕を動かして下さるとしたら、 この画と詩を読むと、私は必ず、涙が滲み出てくるのである。 |
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vol.9
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南十字星を見た頃 |
2002-8-30
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病院船「ぶえのすあいれす丸」は南支那海をひたすら南下していた。初めてのシンガポール航路だった。往航で患者さんのいない勤務は程々にゆとりがあった。今夜あたり南十字星が見えるという船員さんの情報に私達看護婦はそわそわしていた。そして夜になりデッキに出て、白いユニフォームのまま仰向けに寝て天に向かい合ったのである。 |
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