八十乙女のつぶやき   国分 アイ Kokubun Ai


 
  vol.9   うどん屋の釜   2007-1-25
 
 

『天うらら』という、NHKの朝ドラが放映されていた頃の話である。

池内淳子さん演じる、主人公うららの祖母は、深川木場のきっぷの良い材木問屋の女将さんで、男勝りで歯切れのいい早口言葉・・・・・・。

毎朝楽しみに見ているうちに、忽然とある言葉が私の記憶によみがえってきた。「あいつはいつも“うどん屋の釜”なんだから」という、十二さんの言葉である。うららの祖母の口調が、その十二さんにそっくりなのである。
彼女は日赤の同級生で、学生寮で同室だった人である。共に20代の後半を二人部屋で過ごした。彼女は深川育ち。福島の田舎育ちの私とは対照的な都会人。際立って個性的な才女だった。

ドラマにつられて、50年も前に聞いた言葉が次々に浮かんでくる。
「結果自然に来るっていうんだよ」
「両方良いのは頬かむり。それでも後先まだ寒いってね」
「そうそう、あなたの言う通り、私の聞く通り、銀座通りは人通り」
「それは悪女の深情けっていうもんだ」

大方は私に向かって話していた言葉。格言あり、諺あり、落語のオチあり、あるいは私の知らない江戸っ子の駄洒落か、とにかく語彙が豊かだった。調子がいいと、次から次のポンポン出てくる。初めは親から論される子供か、家来のような存在だった綿祖も、馴れてきたらいつの間にか彼女に調子を合わせて話すようになって、会話を楽しんでいた。電話で彼女と長話をしていると、そばで聞いていた後輩がつられて噴出し笑いをすることもあった。

“うどん屋の釜”は、私が相手というより、彼女がぷりぷりしながらの、独語のことが多かった。この言葉を思い出してから、私は看護学校の同僚や教え子など、身近な人に片っ端から「“うどん屋の釜”って、知ってる?」と質問してみた。年齢の高い人のほうが興味を示したが、一人も知っている人はいなかった。

ある時、「先生、また必ずお伺いします。うどん屋の鍋ではありません」という便りといただいた。時の流れで、釜が鍋になってしまったか、と手紙を読みながら一人で吹き出してしまった。

さて、“うどん屋の釜”とは、湯ばかり=言うばかり、なのだが、そのひねった解釈はどこから来たのだろうか。それを知りたくて手元の故事ことわざ辞典を調べてみたが、見当たらなかった。さてはわが畏友、才女の十二さんの創作かもしれない、と思うようになっていた。
だが、つい最近、東京下町に生まれ、私より少し若い隣人の高橋さんに聞いてみたら、「知ってるわよ、“蕎麦屋の釜”っても言うでしょ」とあっさり答えてくれた。やっぱり下町言葉だった。田舎育ちの私など知りようがないと納得していたところ、また次の情報が入った。

NHK教育テレビの「人間講座」で、『文珍流落語への招待』という番組を興味深く見ていたら、わが関心の的“うどん屋の釜”についてさりげなく説明していたのである。出所は上方落語だったのか。とうとう突き止めたという思いで、その番組のテキストを注文した。あいにく評判がよくて売り切れ。いつもの本屋は、NHKにも在庫なしという報告をしてきた。ひょっとして福島ならと思い、電話したら義弟が探して早速送ってくれた。だが、文中にこの言葉の意味の説明はなかった。上方落語からなのか江戸下町の駄洒落なのか、本当のところは今のところ私にははっきりしない。

思えば、足かけ3年、“うどん屋の釜”にこだわってきた。一時、私はこの言葉に理屈っぽい解釈を与えた。つまり、謳い上げた理念があっての実践がない。半世紀にわたり、私が職として身を捧げてきた看護も、今や「実践の科学」とされ、時代の要求に応じて全国に70校ほどの4大制大学が誕生し、看護学なる理論も次々と紹介されている。だが、理論と実践の乖離といった問題も指摘されている。看護教育の高度化、看護学の発展と並行して、看護の受益者、ユーザーでもある国民は満足な看護を受けているだろうか。言うばかり、書くばかり。実践が伴っていないのだ。やっぱりこれも、“うどんの釜”じゃあないのか・・・・・・。

傘寿を迎える元看護婦の思考は、ここまでエスカレートしてしまったのである。   (1999年)

 

 
 
   vol.8   ファッションって、どんなこと  2006-10-19
 
 

ファッション、日本語では流行である。服飾全般、風俗に及び、意味するものは広い。まずは、テレビでしか見たことはないが、あの華麗なファッションショーの舞台と、動き回るモデル嬢の姿が浮かんでくる。

「私たちの青春時代は、白と黒の制服きり着せられなかったから、ファッション感覚はまるでだめ」と仰せられる、わが赤十字看護婦養成所の先輩Kさん。それは謙遜で、彼女の服装のセンスはかなりだと思う。私も美も対する憧憬は人より強い方だと思っているが、あのファッションショーの世界とは、全く別な世界に住んでいるのは確かである。けれども、流行と無縁でいられないのが、今の世の中だ。

昭和40年代、ミニスカートがはやりだした。なんたる女性の姿。みっともない、恥ずかしい・・・・・。漫画家のサトウサンペイ氏がミニスカートに憧れ、賛美するごとに、私は抵抗を感じたものである。だが、恐ろしきは流行である。青春白黒派も、いつのまにかスカート丈が膝上になっていたのである。否、それをはかないほうがおかしい世の中になっていた、というべきであろう。そして、移ろいやすいのもファッションである。バッサリと切り捨てたばかりの高価なスーツのスカート丈を、洋裁師にまた継ぎ足してもらった記憶もある。

ファッションとは、いったい何なのだろう。人生長く生きてきて、同じような波が繰り返し巡ってくるように感じるが、どこかが微妙に違っていて、古い物はやはり古くて、またそれがはやっても着ることはできない。この頃は、購買を継続させるための商業ベースに大衆が操作されている社会現象なのだと、流行をばからしく思ったりする。

けれども、変化向上の要求は人間独自のものであるという意味では、人間の文化はファッションの変化史でもある。そう考えると、あのファッションショーの光景は、人間であることの誇示であり、この時代に生きる人間の賛歌でもあるように思える。そういう目で、あの別世界のような、華麗なファッションショーを見ると、人間が躍動しているように見える。ハナエ・モリ、イヴ・サンローラン、なんて華麗で、刺激的なんだろう。         (1999年)

 
 
 vol.7   生涯未熟   2006-9-28
 
 

ある時、看護にかかわるある機関の記念シンポジウムに、壇上から意見を述べさせていただく機会を得た。終了後、同じ壇上に座られたE先生から、「先生、お若いですね」と声を掛けられ、思わず「未熟なんですよ」と応えた。謙遜したわけではない。最近、わが身の無知未熟への自覚が強いからだ。

68歳のとき、一念発起して放送大学に入学した。短大教授の肩書きがあっても、専門教育の養成所卒業というのが最終学歴で、特修生という仮入学からのスタートだった。

初めて定期試験を受けに出かける朝、テレビで50代の某女史がインタビューを受けているのを見た。そこには、一つのことに打ち込んできた人の、不動の顔があった。この年で大学で学び、試験を受けに出かける自分が急に恥ずかしくなった。

私にも一筋に歩んできた看護の道があった。もてる能力以上の立場に立たされ、「過渡期なのだから、誰かがせねば」と自分に言い聞かせ、智慧と知識の限りを尽くして厳しい管理職の職務に耐えた。思えば、どこかに無理があり、心のゆとりがなかった。30代からの再三の入院、手術を繰り返した病気もあった。しかし、わが身が看護職ゆえに、病気を客観的にみることもでき、かえってそれを仕事に生かしてもきた。

しかし、一方で、病気は私に逃避の場を与えた。どこかやり残したという思いが、68歳での放送大学入学へとつながっているようだ。畏敬、尊敬してきた職場の友が次々と世を去り、「病み上手の死に下手」と言われながら、私だけが取り残された。その寂しさを埋める、ということでもあったかもしれない。

放送大学入学から4年たった。その間、あんなことも知らなかった、こんなことも知らなかったと、未熟さの検証の日々だった。だが、知る喜びは限りなく大きく広がった。

生涯未熟、いいじゃないの。結婚もできなかったし、蕾のまま立ち枯れた花かもしれない。だが、今私の胸の中には、あの凋落の前の紅葉の錦繍のような華やぎがあると思っているのだ。       

                                              (1993年)


 


vol.1
老いて画く自画像 vol.2 老年の一つの仕事 vol.3 文系と理系
vol.4 日本人の宗教観を思う vol.5 拙宅へどうぞ vol.6 老いを生きる日々
vol.10 ラジオ深夜便からのメッセージ
             コラム(国分アイ)へ戻る