国分 アイ Kokubun Ai


1920年 福島県生まれ。日本赤十字看護婦養成所を卒業の年に大平洋戦争が勃発し、陸軍海軍病院に勤務。戦後は日本赤十字中央病院へ勤務。後に同病院専任臨床指導者となり、日本赤十字看護短期大学の学生指導、教務部長を経て同病院副看護部長歴任。退職後、自治医科大学付属高等看護学校、杏林大学医学部付属看護専門学校、埼玉県立衛生短期大学、日本赤十字愛知短期大学で教鞭をとるというように、一貫して看護教育に携わる。自身も、胃切除、腰椎圧迫骨折、肋骨骨折、胆のう摘出など怪我や病気を体験し、その体験が看護教育に生かされてきた。さらに70歳で多発性骨髄腫を患いながら、放送大学を5年で卒業。フランス刺繍、ケーキづくりと何事にも研究心旺盛。

国分アイ先生は、2004年4月14日 昇天されましたが、そのお心を継続して
掲載させていただきます。



 

八十乙女のつぶやき

「生きていることはすばらしい、しかし、厳しく、つらいことです。
  こんな私の生きざまをお目にかけるのは、恥ずかしいことでもつらい
   ことでもありますが、何か私の皆様へのお礼のメッセージを残したく、
筆を執らせていただきました。」 2003年8月 国分アイ

 国分アイ先生の遺志を引き継いで、
      妹のミヨさんが命がけでまとめあげた自叙伝の第二弾
 「皆さんのお役に立てるのであれば、故人も喜んでくれるはずです」
お許しをいただき、「我が人生・我が看護観」に引き続いて、
掲載させていただくことになりました。

 

 
  vol.13   八十乙女のつぶやき   2008-3-13
 
 

私は今、要介護X度、マンション一人暮らし、82歳の老女である。小学校から、旧制高女卒業。当時の時代の流れに押されて状況し、赤十字看護婦養成所に入学した。赤十字は男子禁制の厳しい全寮制。この間の私はまったく女性社会に生きてきた。

卒業し、支那事変から太平洋戦争の時代は召集され、日本救護班員として陸・海軍病院勤務となった。医師、使丁などもいたが、主体は看護婦の集団である。

そして敗戦、召集解除となった。その後は母院に戻り、臨床看護婦となった。私は看護婦の仕事が好きで、楽しく働いていた。身についた看護経験を自分なりに理論化し、乞われて地方への講義、講演に出かけた。待ち続けていた地方病院の看護婦さんも女性集団である。相変わらずの女性社会に生きていて、結婚など考えてもみなかった。また、両親も強いることもなかった。

しかし、77歳で多発性骨髄腫という、思わぬ診断を受けた。武蔵野市の福祉は恵まれているという情報で移り住んだが、この宿痾に悩まされながら闘病の日々を生きてきた。介護保険制度が発足して、真っ先にその恩恵に浴し、ヘルパーさんの派遣を受けている。お陰で、今は何とか室内歩行ができ、外出時はコルセットをしっかり腰部に巻き、我ながらヨチヨチと歩いている。

掃除、洗濯、食材の購入はヘルパーさん依存。そのヘルパーさんたちも女性ばかりだ。私にはそのヘルパーさんたちにあだ名を奉る癖がある。18歳の福田さんは"ヤンゲスと福田"。心も優しく万事気の届く山下さんは、ピンクが大好きで身近な用具はみなピンク。だから"ピンクレディー"。福田さんを含めて5名のヘルパーの皆さん、納得している。

料理はほとんどをヘルパーさんにお願いしていて、その作り置きで食事をするので、毎日冷蔵庫の扉を開けない日はない。その扉にヘルパーさん宛のメッセージがはってある。「生ものの食材は、できるだけ新鮮なものを必要なだけ」「食材はよい店で」「冷蔵庫に古くなったものがあったら、捨てたいと思うので声を掛けてください」など書いて、"八十乙女より"と書いた。つまり、私が私に付けたあだ名が"八十乙女"である。

1997年に77歳の喜寿を迎えた記念に、『我が人生・我が看護観』を出し、あれから5年がたった。   (2002年)


vol.12   松の言祝ぎ  2007-4-3
 
 

先日、旧制高女時代のクラスメートのご招待をいただき、菊池敏子さんの永年続けてこられた能の発表会に、渋谷の松涛まで出かけた。

招かれた級友のいずれも、82年の人生を歩いてきた。彼女の住まいが犬山市、関西での発表の年もあるらしいが、数年に一度巡りくるこの日を、みな楽しみにしていた。しかし毎年、一人、二人と参加者が減ってくる。今年は私も体調を崩してしまい、参加できないと思っていたが、ヘルパーさんの援助を受け、杖を突き片手を支えていただき、会場の椅子に座ることができた。

菊池さんは私の体調のよくないことを知り、出席できた私を心から喜んで迎えてくださった。故人となった二人の母親同士にも、いささかのかかわりがあった。

舞台に立った彼女の舞い姿は、かなり若いときから白髪のまま、美しく老い、凛として輝き、踏む足音も冴えて響いた。ふと気づくと、能舞台には松が欠かせないもののようである。専門家でないので詳しい約束事はわからないが、脇正面に座ると、松の木がある間隔を置いて飾ってある。

この国においては、松は門松から始まる。喜びと祝い事のシンボルである。

帰宅してふと気づいた。我が住むマンションの名称である。パインクレスト、松の紋章である。

なんとなく、心うれしく、楽しい一日だった。      (2002年 11月)

 

 

  vol.11   『イスラエルとパレスチナ』(立山良司)を呼んで   2007-3-8
 
 

正直に言って、私にこれほどのインパクトを与えた本は、最近なかったように思う。看護職として生きてきた71歳の私にとって、関心を持ちつつもその核心に触れることができずにいた、中東問題を論じた本である。この種の本をあまり手にしたことがなかったため、読解に努力を要した部分もある。

読み進めながら、このように人間に不公平があってよいのか、人が人を権力で縛ってよいのか、民族や宗教をバックにすれば殺人も許されるのかと、人間としてやり切れなく、人間不信に陥りそうであった。途中でこの本の“重さ”に耐えがたくなり、『あざみの歌』『知床旅情』『いい日旅立ち』などの日本の叙情歌のテープを流してわが感情の疲労をコントロールしながら、3日もかけてやっと読み終えたわけである。

まず私の関心を引きつけたのは、中東問題は私の生きてきた人生と並行して起こっている歴史的事実であり、特に最近のイラン・イラク戦争、湾岸戦争の前提として、どうしても理解したいテーマであるということだった。この問題に関する私の知識は断片的で、時間と空間の中で起こった事件脈絡のないままで、継続的な理解ができていなかった。

ガザ地方、テルアビブ、アンマンなどの不穏な土地、アラファト、フセイン、サダト、ペギンなどの人物、さらに十字軍の時代にさかのぼるエルサレムと宗教の問題、キャンプデービッド、日本赤軍派のあの事件と中東問題の関係などなど、知りたいと思う情報がこの本にすべて盛り込まれていたのである。

この本を読み進めながら、私は一気にその答えを受け取る事ができた。複雑に絡み合い、次の事件の伏線となる歴史の壁を読みつつ記憶することは、老人にはかなり困難な作業で、何度もページを戻り、地図を再確認し、巻末の年表と照らし合わせ、日本の歴史や自分の人生の節目も年代に合わせながら、どうやら読み終えることができた。

読んで良かった。

宗教と民族のアイデンティティに考え込む

日本人は、神も仏もキリスト教も容認し、日常生活でも必要なときに勝手にその様式を取り入れている。我々には考えられぬ、この地の人々の宗教観の執着に驚かされる。

何故にユダヤ人はエルサレムにこれほどこだわるのか、正直いってまだ私にはわからないが、この本を読んで「シオニズム」という言葉の意味、その運動とユダヤ人の歴史を知ることができた。しかし、もっとわからないのが、あにナチによるユダヤ人の大量虐殺の問題である。

『夜と霧』という本を読んだことがあり、この本も衝撃的であった。ホロコーストといわれるユダヤ人の悲劇は人道上許されるものではない、ドイツ人の冷酷さは日本人第二次世界大戦時の行為にまさるものと恐怖を覚え、ユダヤ人への同情などという言葉では言い切れない、民族の悲しさに共感していた。しかし、今回この本を読み、第一次中東戦争での独立宣言後のユダヤ人のパレスチナ人への対応は、ほとんど同様であることを知った。宗教と長い歴史に裏づけられた民族のアイデンティティが、これほど強烈で執拗で、人間の闘争心をあおるのか。人間として物覚えをした時期から人を疑い、敵愾心をもち、人間不振のまま一生を終える中東の人々に同情を禁じえない。そして、不当な制約の中で生きるパレスチナ人の苦衷と、生きることへの努力の日々が今日も続いていると思うと、同じ人間として直視し得ないと同時に、理解の限界を超えている。

人間としての誇り、喜びはどうなっているのであろうか。プロローグにある、1通の手紙にわずかに救いを見いだすことができるが、反面、人間のしぶとさも実感できる。恐ろしいことだ。

岡本公三の事件、そして赤軍派のその後に思うこと

日本赤軍派の行動が、日本中の人々をテレビに釘づけにした時代があった。過激派、テロ、赤軍派という言葉は、今では不穏なマイナスイメージの言葉として浮かんでくる。彼らのロッド国際空港での乱射事件が、イスラエル、パレスチナの歴史にどういうかかわりがあったのか、私には当時具体的には理解できなかったが、それも初めて理解できた。今、岡本公三の行く先はわからないという。何が彼らをこのような行動に走らせたのか。ある偏った情報のみ溺れ、歴史の流れ、世界的な視点などの広範な情報の把握がなかったのではなかろうか。いたずらな精神主義の昂揚と青年特有の正義感がこのような事態を招いたのではないかと、その後の歴史の流れをみると、同じ日本人として、哀れさと同情の念に駆られてしまう。今日の日本の繁栄の中に生きられる人々であったのでは、と残された家族の心情が思いやられ、空しさを感じた。

ジュネーブ条約は?

私は赤十字の看護婦として太平洋戦争中、日本陸軍の病院船に乗り、傷病者の救護にあたっていたが、患者輸送中に米軍の魚雷攻撃を受けたことがあった。船体にはジュネーブ条約で定められた、赤十字と緑の横線が描かれていた。船はエンジンを損傷しただけで、再び香港に戻って傷病兵を降ろし、船はドック入りして約1週間で再び出航し、目的を遂行することができた。我々はもちろん、日本の世論も鬼畜米国のジュネーブ条約違反である、とアメリカを強く非難したものであった。しかし、本書を読む限り、イスラエル、パレスチナ間の人身保護に。ジュネーブ条約はほとんど機能していないようにみえる。「1949年の戦時における文民の保護に関する第四次ジュネーブ条約の制約を受けるとしながら、イスラエルの行っている行為の多くは、ジュネーブ条約違反と見られる」とある。私の戦争体験からいうと、戦争ほど不条理な理不尽なものはなく、戦いは武力で勝つことによりすべてが正当化されてしまうのである。広島、長崎の原子爆弾も禁じられるべき行為であった。しかし、本書を読むと、長期に続く心身の苦痛に耐え抜くことよりは、一瞬のうちに命を失った人々のほうが、まだましといえるのではないかとさえ思う。
いつ起こるかわからなぬ生命の危機を感じながら、また常に敵愾心を燃やし、テロを画策し、人を難なく殺戮しながら生活し、成長し、歴史の中に消えてゆくことのほうが、人間としてこれ以上の不幸はないようにさえ思える。

本書は、非常に 理性的、客観的に事実と歴史を追って公正に説明されており、理解力の乏しい私にも大変わかりやすかった。私にとって長い間懸案だった中東問題について。その背景を飲み込ませてくれた本である。

最近のイラン・イラク戦争や湾岸戦争の理解を前提として、イスラエルやパレスチナの長い間の確執を知りたくて、宗教面から理解しようと、キリスト教とイスラム教に関する本を読んでみた。しかし、ユダヤ民族がパレスチナに祖国を再建しようという、政治思想上の問題であるシオニズムの原点を知ることはできなかった。また、時々新聞による解説記事を切り抜いたり、この種のテレビ解説を熱心に聞いてみても歴史の流れを正しく把握することができなかった。ある時書店で、中東問題についてこの本がもっとも良く書かれていると推薦してくれた。それが本書との出会いだった。その書店員の言うとおりだったと満足している。

膨大な情報が冷静、客観的に示され、一つひとつの事態を正しく伝えてくれている。さらに、その事態に対する著者の評価の言葉は、人間として妥当であり、それぞれの歴史的背景に置かれた人間と民族に対して、人間としての同情や温かさが感じられた。終章に述べられた著者の意図にも、深く共感することができた。      (執筆年齢不詳)