● 須之内 哲也 sunouchi
tetsuya 事故に遭わなければ一時代を築いたに違いない元・オートレーサーによるコラム 「須之内 哲也の世界」〜もう一度会いたい〜 ガンと共に歩んでいた須之内さんは、
12月25日、午前9時30分、信頼していた息子と妹さんたちに囲まれて、須之内さんらしく逝きました。 最愛の奥様・初美さんのもとへ。 「コラムは多くの方たちに読んでもらいたい」そんな言葉を遺して・・コラムはまだまだ続きます。 「家で過ごせてよかったと思うけど、看る方は大変ということもある。
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vol.10 | どうか初美を助けてほしい |
2008-3-18
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(手術の説明) 先生の説明では「胃が原発で、リンパ腺に転移して、胃の下の部分にガンがあるので、手術をする」そして「1年が目標で、どんな抗がん剤も効かないけど、手術後、抗がん剤もつかう」と1時間以上も、図を書いて詳しく説明をしてくれた。手術日も6月29日と決まった。私は何回も説明されてわかっていたけど、途中から身体の力が抜けてしまい、机に伏せてしまった。皆に説明が終ると、初美も加わるので、しっかりしなくてはと思い、私の隣に初美が座ると、先生の説明もさっきと違う説明で、初美は先生に、色々と質問をして、先生もわかりやすく説明してくれていた。私は心の中で「初美、本当は違うよ、手術もガンを治すのではなく、口から物が入るようにする為だよ」という思いだった。初美が治りたい一心で、一生懸命に質問しているので、初美がだまされているようで、どうしようもなくかわいそうで仕方なかった。病院で治せないのなら、俺が治してやると、本気で考え、思っていた。 6月23日 私の母親に家まで来てもらい、病院に行って、初美を外泊させて、そのまま三人で、寒川神社にお参りに行った。神様に「どうか初美を助けてほしい」と祈る気持ちだった。6月29日が手術日と決まっていたが、先生の都合で、7月2日に伸びた。 6月26日、外泊許可をもらい家に連れて帰ってきていた。入院する前から、入院が長くなっても、食事を作れるようにと、私に食事のおかず作りを教えてくれる。「俺には出来ないよ」と言うと「ダメだよ、ちゃんと作って栄養考えないと」と初美が側に付いて、私が包丁をもって、特訓のように教えてくれた。初美がつい手を出したがりそんなときは、私が「大丈夫だよ、出来るから、お前は座っていろよ」と言って、作っていた。 初美が居ない家の中は、真っ暗になった感じだった。午前中は初美の着替えの洗濯をして、夜は、食事の支度をして、色々と用事をしながら、毎日病院に通って、初美の顔を見ないと不安だった。病室に入って行くと、いつも初美は、窓際に立って、ボーと窓の外を眺めていた。私が、小さな声で「初美」と声をかけても気がつかず、「初美」と声をかけながら、背中を指先で叩くと、やっと気が付いて、「哲ちゃん来ていたの」と言い、私が「どうした、大丈夫か」と聞くと「何でもないよ」と言っていた。 手術の2日前まで外泊して「病院で寝るのは怖い」とも言っていた。隣のKさんは、今日手術して、いつも空いているカーテンが、閉まっていた。初美が「明日は私が手術だね」と言った。「そうだな、明日は手術だから、今夜は早めに寝なよ」言い、初美は元気なさそうに「そのまま死ぬようなことはないよね」私も「大丈夫だよ心配しなくても、明日は朝から来るからな」と言った。しばらく居て帰ってきた。 1998年7月2日 初美の手術 7月2日、手術日、朝から心配で病室に行くと、いつものように窓の外をぼんやりと眺めていた。「初美」と呼ぶと「もう来たの」とちょっとだけ安心したようだった。 「今日は皆が来てくれるからな。義父さんも来るから心配するなよ」と言ったけど、心配だよな、と思っていた。手術が始まる前に、父親とも話が出来て、皆それぞれが、初美を励ましてくれた。手術の時間まで落ちつかずにいたけれど、いよいよ時間が来て、ストレッチャーに乗っている初美の手を握って「痛くないし、大丈夫だからな」と声をかけた。初美は「うん、行ってくるよ」とじっと私を見つめ、これが最後の見納めかと思うような顔をしていた。エレベーターに乗り、手術室の前までついて行き、手術室に入っていくのを見送った。義父さんに、手術後の初美を見せないようにと、義妹が気を使って手術中に、義父を連れて帰った。 |
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vol.9 | 病院で寝るのは怖い |
2008-2-28
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6月17日、レントゲンや検査が続き、先生から「22日、家族に検査結果と、手術の説明がある」と言われた。先生が、「奥さんの目標は一年ぐらい」と言った。私も、一年と聞いて、冷静に質問出来なかったのかも。私は「どうしても、手術しなければ駄目ですか。初美をこれ以上痛い思いや、手術をさせたくない」と言った。先生が「手術しなかったら、胃がふさがって、飲み物も飲めなくなる。手術するのとしないのでは、どっちが奥さんを苦しめるかわからない」と怒鳴られて「じゃ奥さんをどうしたいんだ」と言われる。それでも私は、「胃ガンの末期だとわかった。でも、今、こんなに初美は元気なのだから、悪くなってから手術しても」と素人考えと、動揺もしていて、先生に言ってしまった。先生も「若いから。元気だから。今手術するんだよ」しばらく考えていたが、私も「わかりました、お願いします」と言って、部屋を出てきたけれど、一年しか持たないのかと思いながら、初美の部屋に入って、顔を見ていたけれど、こんなに元気なのにと信じられない気持ちだった。 ホスピスに初美と二人で行く事は出来ない。家で家族と一緒に居たいと思っていた。在宅看護をもう一度お願いした。 6月18日、朝九時から、病院のケースワーカーの人に会う。簡単な個条書きを作って、在宅看護と今後の事を聞いた。在宅看護の話が、少し思っていたのと違っていた。 そのまま、ナースステーションに行き、明日の正午まで外泊許可をもらって、午前中に、初美を連れて家に戻ってきた。 6月19日、午後から検査があるので、午前中には病院に戻った。明日からはまた何もないので、20日から22日まで外泊許可が出て、22日午後から家族に、検査結果と手術の説明があるので、それまでに戻ればいいことになった。 6月20日、朝から病院に初美を迎えに行き、連れて帰って来る。初美が外泊で家に帰って来ているので、私の母親がきて、夕方には帰って行ったのだ。 夕食をしている時、初美が「お母さんが言っていたけれど、成田山の所に、良く当たる占いの人がいると、その人が言う事は当たるので有名らしい」と言うので、もうすぐにでも見てほしいと思い、「次男に、明日は日曜日だから、行ってこいよ」と言った。長男は、私の実家に行っていたので、電話をすると「従兄弟の人が近くに住んでいて、よく知っているから」と従兄弟に電話を入れて聞くと、順番は取っておいてあげるからと言ってくれた。次男が家を夜中に出て、実家から長男と妹や姪と待ち合わせて、見てもらったら、「助かるから、寒川神社にお参りしなさい」と言われたと次男はそのまま一人で、寒川神社に向かったが、場所がわからないので次男と私が、携帯電話で連絡を取り合いながら、やっと寒川神社に着いてお参りが出来て帰ってきた。初美も「ありがとね」と言って、神棚はないけれど、お札を飾り、張り紙を張ってくれていた。親兄弟や、知人、友人と、皆が、私達夫婦を助けてくれていて、本当に感謝していた。 |
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vol.8 | 初美の居ない家は暗くて淋しい | 2008-2-5 | |||||
6月15日、外科外来に行き初美が嫌がっていた、大腸の検査している時、一人病院の廊下で待っていた。一人でいると色々考えてしまい、検査するたびに悪い方に向かっていたので、大腸にも転移しているのではないか、と心配と不安な気持ちだった。初美が元気そうに出てきたので、安心したけれど、早く家に連れて帰りたかったので「早く帰ろう」と病院を後にして、家に帰ってきた。 夜はいつものように、食事しながら、日帰りドライブに行こうか、という話になって、初美が「アクアラインに行ってみたいね」と言い、子供達も「17日行こう」と話が決まって喜んでいた時に、病院から「明日ベッドが空いたので、入院するように」と言われた。せっかくドライブの話が、まとまっていたのに、いよいよ入院してしまうのか、と皆が暗くなってしまった。 入院の準備は出来ていたので、あわてる事はなかったけれど、初美が「入院して、もう家に帰ってこられなかったらどうしょう」と言って、私と子供が「大丈夫だよ。帰って来ることは出来るよ」と励ましていたけど、皆が不安な気持ちになっているのが分かった。 子供達は「明日の入院は、二人で行くから、お前達は仕事に行くんだよ」と初美から言われて、子供達も「仕事の帰りに、病院に行くから」と話し合った。 6月16日、いよいよ入院、朝10時までに、初美と二人で病院に行き、入院の手続きを済ませて病室に入ると、4人部屋でカーテンが、全部開いた明るい窓際のベッドだった。 部屋の人達に挨拶して、隣のベッドは初美と同年代の人で、斜め前には若い人がいて、前にはおばあさんが、今日手術しているので居なかった。皆よさそうな人で良かったと思った。すぐに担当の看護師さんが来て、色々と説明を受けていると、たまたま私が何年か前に入院したときの看護師さんが入ってきた。婦長さんになっていたようで、私をおぼえていてくれていた。「奥さんなの」と聞かれて、私は「はい」と答えて挨拶をして、少しだけ話をして師長さんは出て行った。しばらくするとナースステーションに、私だけが呼ばれ、師長さんと担当の看護師さんがいて「奥さんのことは、先生から重い病気だとぐらいしか、まだ聞いていないけど、どうしたの」と聞かれ、家内は胃ガンで末期だと先生から言われていることを話した。「妻は、ガンだとは知っているけど、ガンの末期だとは知らない」と話すと、担当の看護師さんは「本人に末期のことも、話したておいた方がいいのでは」と言った。私は「本人が胃ガンで首にも、ガンがあると知っているだけで、十分だし、胃ガンの末期だとは絶対に言えない。胃ガンの末期だとわかれば、生きる気力が、なくなってしまう」と話して涙ぐんでしまった。師長さんが、私に「どうしてあげたいの」と言うので、私は、「いつも一緒に居たい。出来れば、検査のないときは、外泊して家で過ごさせてあげたい」と話した。師長さんも「わかりました」と言ってくれて、先生とも相談してくれると言ってくれた。 午後からは、MRI検査、レントゲン、採血、採尿と色々検査して、心電図をしている時、看護師さんが「手術するのですか」と初美に聞いていたそうで、初美は「やっぱり手術するんだね」と不安な顔で言っていた。面会時間まで一緒にいたが、初美の居ない家は暗く、淋しい思いだった。 |
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