U、何もない。自分達で作るしかなかった。 |
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看護婦は「保健婦・助産婦・看護婦法」により医師の指示があった場合以外は医療行為をしてはならないと業務が制限されており、さきの胃管や尿道カテーテルの交換なども医療行為にあたり、厳密にいえば看護婦だけではしてはいけないことになるのです。 看護界の反響 医療法人財団健和会の臨床看護学研究所の川島みどり所長は「体の清潔、栄養評価を含めた食事に関するすべて、排泄の世話一切などは看護婦が独自の判断でできること。胃管や尿道カテーテルの交換などもその延長線上にあるわけですから、看護業務としてみとめるべき。以前なら入院していたような患者が、管つきで、どんどん退院させられる今日。そのフォローを一体だれがお世話するのでしょうか」と現在の法律の「しばり」に疑問を投げかけています。 ますます必要退院後のケア |
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アンダーラインBに対する看護界の反響を読んでいただきたい。今から考えても、ナースの出番を必要とする在宅でのニーズは当にあったにもかかわらず、いざ会社をつくって活動を始めた小さな組織に対して当時の公的な立場の看護職は、批判的であるのみでバックアップなど望む由もなかった。このことからも、看護界は社会的ニーズに目を向けず明らかに乗り遅れていたということがいえるだろう。 | |
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厚い経済的壁。何の経済的支えもないまま、退職金をはたいて有限会社を設立。看護を提供しその受け手から、直接報酬を得る。 きわめてシンプルである。しかし、日本においては、水と福祉はただ?とか。完全看護という言葉の残る病院看護。医療は誰もが受けられて当たり前。いろいろな意識が根強く残る中で、有料の看護に対しては、する側も受ける側も戸惑いがあり、現実は甘くはなかったはずである。 現に、自分自身も有料で看護を提供し看護料と自分の実力のギャップに 一人ではなくシステムの一員として活動しているにもかかわらず、少なからず抵抗があった。1992年になって、ようやく訪問看護が制度化された。訪問看護が保険適用になり経済的問題が一部解消された。 しかし、ナース集団に保険適用が認められたのはそれから、7年後のことである。そして、現在でも保険と有料部門を持ちながらも経済的安定という意味ではまだまだ奮闘が続く。 |
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もともと社会改革が目的の活動ではなかったが、先駆的な活動を一般新聞が大々的に取り上げた3つの記事は、多くの壁に悪戦苦闘しながらも、ナースが行動を起こし、在宅で救いを求めているひとに対して看護を提供したパイオニアとしての活動を評価し好意的に報じてくれている。 そのおかげで会員の増加にもつながり、ジャーナリストにより細いくもの糸を投げてもらい「助けられた」ということが言えるだろう。 |
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