V 活動を続けるための苦悩と決断 シルバー産業の嵐の中で・・・


高齢化・少子化・高度医療化が進展し、在宅ケア推進のもとに国や自治体の施策が検討され福祉を中心に新たな制度や資格が誕生した。センターの活動も在宅看護の立場からだけではなく、よりよい在宅ケアシステムの構築を目指して、さまざまな集い、研修、講演を企画し、全国に向けて精力的に活動を続けた。組織を有限会社から任意団体へと変更し、社会からも少しずつ理解が得られるようになってきていた。他分野の人ともネットワークを確実なものとするための活動を拡大していった。しかし、療養者・家族からの声に耳を傾ける事を忘れず、早いスピードで変化する社会の動きに流されずに、あくまでも看護というスタンスを揺るがさず看護活動を続けるための苦悩と決断が求められた時期でもあった。


 



<夫の献身的介護を受け、最期も自宅で>

  
<夫と2人暮らし、ガラス屋の主として>


<特例24時間看護体制で、最期まで自宅で>

 

 <巡回訪問看護、7歳のペルーの少年のIVH>


療養する人・その家族の生の声は、いつも支える側にとっても何かを考えさせられ、時に勇気づけられたり教えられることが多かった。


 

10、「任意のグループによる在宅ケアシステムの模索」    1990年  保健婦雑誌3月号   村松静子執筆一部抜粋
   
多様化する在宅ケアシステムと看護職の役割
生きた看護を提供するために在宅療養者と家族が自分たちの家庭の良さを味わいながら、生活らしい生活が送れるには訪問看護だけでなく、それ以外の多くの支援が必要であることを痛感した。
訪問看護を実施する一方で、私は日本における在宅ケアシステムのあり方を模索せざるを得ない状況に立たされた。
「在宅で療養したい」「在宅で療養させたい」「せめて最期は家で…」と悲痛な声を耳にするなかで、それらの思いを支えるには訪問看護だけではできないと強く思い始めたのである。しかし、支援機能はシステム化されておらず、まったくといってよいほどばらばらなのである。在宅ケアの根底には3つの基本姿勢が潜んでいる。

@、個々のニーズを満たすために必要なケアを包括的に受けられること。
A、健康の回復を促進するとともに、障害を最小限にとどめながら個々がそれまで築いた生活を可能な限りおくれること。
B、療養の場を確保することで、病院での入院期間を短縮させ、さらに、再入院をも減少させること。

在宅ケアシステムは、必要な治療が必要なときに受けられるという約束のもとに、住み慣れた我が家で安心して療養生活が送れるように構築されなければならないのである。

質が確保された医療・福祉・保健・民間の個人・団体を紹介する機能を持ち備え、どこの地域に在住していても、どのような状態の療養者であっても昼夜を問わずいつでも必要なことが、気持ちよく即受けられるようにできることを願って在宅看護支援協会の設立に着手。
アンケート調査 全国調査2556 回収率591 日本の在宅ケアの現状の把握いろいろな角度からのサービスを用意することが要求されてくる。しかし、いずれにしろ最終的条件としてあげておかなければならないのは質的側面の確保である。
東京都医師会の後援を受け、都内23区の3000箇所の医師・診療所を対象にアンケート看護の質を確保するために看護職によって真の看護が提供されたなら、たとえ、どんなに重症であっても、その身体と心は癒されるはずである。
「看護婦さん、もっと自信をもって本当に看護婦としてすべきことをしてください」「看護婦さんにちょっと相談したことでも医師に聞いてくださいという。病気を抱えて不安でしかたがない私たちの悩みに、もっと耳を貸してください」私たちが直接耳にした多くの市民の声である。
また、在宅療養者を抱えた家族たちはいう。
「いつまでも医師のかばんもちであっては困ります。看護独自の機能があることをしっかり自覚してください」
「医療者は、とかく土足で人の家に入ってくる人が多い。家庭はそれぞれの家族がそれぞれの思いをもって築いたものなのです。勝手に入り込んでくるのは辞めて欲しい。

必要なときに、必要なことを.必要最小限やっていただきたい。黙って、私たちの話を聞いて欲しい。単なる技術者であっては困る。私たちの目線で話して欲しい」
在宅看護研究センターでは、必要なときに真の看護を提供できるようスタッフ全員で足なみそろえた学習をし始めた。

             
    <1988年「患者・家族の会」>              <1989年「看護のネットワークづくり」>          <1991年「療養者・家族からの提言」>
  



有限会社として3年活動を続け、スタッフも増え、少しずつ周辺の理解者が増え活動が定着してきた感のある時期に、有限会社から任意団体へと組織変更した理由を探ると、任意団体にすることで、社会的承認が得やすく活動の間口を大幅に広げた。他分野の人々ともさらに手を組み、理想的な在宅ケアシステムの構築に寄与するという大きな目標に向かって進もうとしていたと考えられる。

看護に対する社会的認知の低さに地団駄しながらも、早いスピードで変化する福祉と動きの遅い医療の動きの両方にまたがりながら看護として確実な活動を進める決断であったと考える。


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