医師として、武士として     安藤 武士 Andou takeshi


 
vol.12
  赤十字とナイチンゲール 2003-7-4
 
 

5月12日、赤十字国際ナイチンゲール記章選考委員会(スイス・ジュネーブ)より、第39回ナイチンゲール記章受賞者、45人が発表された。それを受けて、6月23日、日本の3人の方に日本赤十字本社の名誉総裁である皇后陛下よりメダルが授与された。日本の受賞者は94人となり、世界で最も多いとのことである。
 
「赤十字、ナイチンゲール、看護」という言葉は強い絆で結ばれている。「赤十字と言えばナイチンゲール、ナイチンゲールと言えば白衣の天使」と語呂合わせにように口に出るのは小生だけではない。しかし、赤十字の設立に寄与した人はアンリー・デュナンである。赤十字関係者、看護の業務についている方は別として、アンリー・デュナンの名前を知る人は極めて少ない。赤十字はナイチンゲールに乗っ取られた感がある。その「わけ」を知りたくて資料(*)を漁った。

ナイチンゲールは1820年5月12日に生まれ1910年8月13日、90歳で亡くなった。デュナンは1828年5月8日生まれで1910年10月30日、82歳で他界した。2人は全く同世代の人である。

ナイチンゲールは1854年から始まったクリミヤ戦争に英国陸軍の従軍看護婦として活躍し、近代看護を創立したばかりか、それまでの医療に看護を加えた新しい医療を創設した人である。学童向けの偉人伝に必ず登場する人物で、ご存知ない方のほうが少ないはずである。

デュナンは1859年の北イタリヤでの戦争で戦場となったソルフェリーノの惨状をみて1862年、「ソルフェリーノの思い出」を出版した。その著書で、戦時の負傷兵を看護することを目的とする救護団体を、平和でおだやかな時代に組織しておくことを提唱した。デュナンは多くの賛同者を得、1863年2月9日、国際負傷軍人救護委員会(5人委員会)を結成、「赤十字」運動を起こした(赤十字の誕生)。1864年、スイス国政府の招集により外交会議が開催されジュネーブ条約が結ばれ国際組織となった。その功績により、第一回ノーベル平和賞が授与された。しかし、ナイチンゲールの名はない。

ナイチンゲールは、デュナンと同じ時代に同じ人道活動で後世に名を残すことになるが、生涯、赤十字運動にかかわることはなかった。それどころか、デュナンの主張する「ボランティアによる救護団体の常時組織、後の赤十字組織に、真っ向から反対した」と橋本裕子氏の著書(後出)に記されている。一方、デュナンはナイチンゲールを称賛していたという(アンリー・デュナン研究所、故・ピエール ポアシェ氏の著書、「赤十字の創始者 アンリー・デュナン」による)。

経緯は不明であるが、生前、赤十字運動に賛意を示していなかったナイチンゲールの名を冠した記章が、1920年、第10回赤十字国際会議で看護に功績のあった人に授与する制度ができた。以後、ナイチンゲールの誕生日の5月12日に、隔年ごとに50人の範囲で「記章」を授与される功労者が発表される。一方、1965年、「アンリー・デュンナン・メダル賞」が卓越した奉仕と献身的行為のあった人に授与されることになった。隔年ごとに5人の範囲で授与されている。この45年の出遅れが、知名度に影響しているようである。

「赤十字の創立者に学ぶ 私のアンリー・デュナン伝」の著者、橋本裕子氏は『赤十字と言うとナイチンゲール』と多くの人が連想することを苦々しく思っておられたようである。橋本氏は、日本赤十字社で、青少年の間にジュネーブ条約に関する知識と精神を普及した功績で、1971年に国際赤十字最高の栄誉であるアンリー・デュナン・メダルを授与された人である。

一文を記す。「ナイチンゲール第一の日本では、彼女の名前をつけたメダルの方が有名で(私が授与されたアンリー・デュナン・メダルと)よく間違えられたが、その方は看護婦さんにだけ与えられるもので、世界中からという点や、一年置きという点では同じでも、ナイチンゲール・メダルの方は、一度に、2,30人分も出るのに、アンリー・デュナン・メダルの方は、たった5人以内の希少価値があるので、余計世に知られていない。私の受賞した時は、たった3人だった。その2年後の次回は2人に減ってしまったぐらいだった」と、日本ではデュナンの名声も、ナイチンゲールのメダル数に負けてしまっている。

さらに、「その思い出と連想が、赤十字に対する国民の先入観となって、アンリー・デュナンとナイチンゲールを取り違えるのもその一例だ。それは赤十字を医療活動に限ってしまうので、……」と、ナイチンゲール記章は赤十字の分科会の賞で、デュナン・メダルは赤十字の総会賞であると言っておられるようだ。

そうすると、日本では、ナイチンゲールに「軒を貸して母屋を取られた」ことになる。また、橋本氏は「日本においては、ナイチンゲールを赤十字の設立者としてデュナンとすり替えるどころか、かれを黙殺するという作為無作為の無知が横行している。理由としては赤十字が日本に紹介された時代の国民的価値の問題があると思う。明治10年の西南の役当時に紹介され出発した日本における赤十字は、人間としての同類感も、敵、味方の間ではせいぜい、『みんな同じ陛下の赤子じゃないか』どまりで、アンリー・デュナンの『人間どうし』のかけ声までにはついていけなかった」と、赤十字というとナイチンゲールと反射的に応える所以を述べている。日本赤十字運動の創世記の影響があったと思われる。

ナイチンゲールは、約200篇とも言われる膨大な看護業務、医療に関する著書、論文を残しているが、他の人の筆による伝記を含め、赤十字運動に関係した記述は小生が調べた範囲ではない。まったく関心がなかったといってよい。

これで、「わけ」が解った。赤十字運動を否定さえしていたナイチンゲールは、その国際赤十字委員会から自身の名の付くメダルが、自身が創設した近代看護に働く人に授与されることを知ってどのように思っているのであろう。知りたくなった。いずれ女史を探し当て、お聞きしようと思っている。間に合うかどうか心配しながら、キングス・イングリッシュの勉強を始めた。お会い出来たとしても、女史の心の内を読者にお伝え出来ないのが残念である。


(*)資料:1)赤十字の誕生 −ソルフェノールの思いで−、アンリー・デュナン著、木内利三郎訳、白水社、1959年 2)ソルフェノールの思いで、アンリー・デュナン著、木内利三郎訳、日赤出版復及会、1973年 3)赤十字の創立者に学ぶ 私のアンリー・デュナン伝、橋本裕子著、学習研究社、1978年 4)赤十字の創始者 アンリー・デュナン、ピエール・ポワシェ著、大田成美訳、蒼生書房、1988年 5)近代看護の創始者 ナイチンゲール伝、バーバラ・ハーメリンク著、西田 晃訳、メディカルフレンド社、平成12年 6)看護学覚え書(復及版)、フローレンス・ナイチンゲール著、小林 章夫、竹内 喜訳、うぶなす書院、2002年 7)ナイチンゲール著作集、第1、2、3巻、湯巻 ます監修、現代社、第1巻(2002年)、第2巻(1997年)、第3巻(2000年).
…………………………………………
1)2)3)4):日本赤十字社看護大学図書館蔵書
 
  vol.11
  「倫理」の変遷
 2003-5-28
 
 

「倫理」という言葉が、つねに医師を監視している。「告知と同意(インフォームド コンセント)」、「自己決定権」、「情報開示」など、現在は当然と思われていることでも、かつては耳にしなかった言葉である。小生の手元に、日本医師会発行(平成12年)の「医の倫理要綱」という冊子がある。その中の「医の倫理の変遷」と題する文を記す。

「・・・。そもそも医の倫理に関しては、これまで、西洋では古代ギリシャのヒポクラテス学派の考えが踏襲されてきており、東洋では伝統的に『医は仁術』とされてきた。このように、洋の東西を問わず、医療については専門家である医師に任せること、そして医師は親が子を思う気持ちで誠意をもって患者に尽くすこと(パターナリズム<父権主義>)が強調され、医師と患者との間にそれなりの信頼関係による医療が成立していた。
しかし、20世紀半ばになると、医学および医療が急速に進歩し、脳死や臓器移植などの高度かつ複雑な医療関係が登場してきた。その一方で、医療情報の普及により医療にたいする一般の人たちの関心が増大し、さらに近代民主主義国家の発展。医療保険制度の普及に伴い、国民の医療を受ける権利が主張されるようになってきた。
・・・・・・・、ヒトを対象とする医生物学的研究における被権者の人権擁護を目的とし『ヘルシンキ宣言』を採択した。さらに、1975年の(世界医師会)東京総会においてその改正案を、採択し、インフォームド コンセント(informed consent)が不可欠であることを宣言した。この宣言はその後、数回にわたり改正されているが、医の倫理として広く各国で承認されている。・・・」

小生は、「医は仁術」、「パターナリズム」の時代に医学教育を受けた医師である。小生が関係した医療分野では、理論的には外科治療で救命できる可能性があるものの、治療法が確立されていない疾患が多かった。「座して死を待つ患者」に病態、予後を説明しただけで、成功率の高くない手術を行うことがあった。そのため「インフォームド・コンセント」という言葉こそなかったが、いま以上に、手術の必要性を理解していただけるよう精魂込めて説明した。しかし、納得していただけるような治療成績を示すデータは少なかった。

心臓外科の開拓の歴史を観ても、医師が説く「治療の必要性」がすべてであった。医師の誠意と熱意が患者の判断材料であった。当時の心臓外科という分野は十分すぎるほど「パターナリズム」が支配していた。その中で心臓外科の治療法は開発され、現在の基礎を創った。

「心臓外科の歴史―その技術を拓いた先駆者たち」(S.L.ジョンソン著、二宮陸雄訳:中公新書、1973年発行)の目次を見ただけで創生期の外科医の「倫理」が理解できる。「心臓弁膜症への挑戦」と題する章には、手術に挑み成功、肺動脈血栓症に挑戦、手術の失敗に終止符を打つ、さまざまな努力のすえに、先べんをつけた手術、息づまる手術の光景、感動のどよめき、殺到する見学者たち、劇的な講演風景、試行錯誤なかで、ベイリーの決意、 多くの失敗の中で、非難がうずまく、秘そかな手術計画、報いられた努力、など、今ではすべてが議論を呼ぶ題名である。

 「秘かな手術計画」と題する僧帽弁狭窄症に対する手術に関する一文を記す。『1948年、6月10日の朝、ベイリーは青年をフィラデルフィア総合病院の手術室に運んだ。ベイリーは、青年の胸部を開いて心臓を露出させた。(略)。ベイリーは指を(心臓の)左心耳から入れ、僧帽弁(口)を拡大した。だが、すでに遅く、患者は手術台の上で死んでしまった。ベイリーは、例の計画を実行した。車で、病院を離れた彼は、数分後にエピスコバル病院の手術室にいた。朝の死亡ニュースはまだ拡がっていなかった。グローバーとオニールを助手にして、彼は若い婦人の手術にとりかかった。指を左心耳から入れると、皮のようになった僧帽弁が触れた。(略)。手術は信じられないほどうまくいった。(略)。術後経過も良く、三日目にはベッドから下り、歩くこともできた。(略)』

ベイリーは、それまで3人を死に追いやっており内科医たちは彼に患者を送ろうとしなくなっていた。彼は、「状態がどうみても致命的あるいは絶望的な様相を示している場合には、いちかばちかの方策でも救いとなる。蛮勇も、時には危険のないものとなる」と書いている。世界ではじめて心臓内手術に成功したベイリーの「倫理」が、心臓外科の道を拓くきっかけを創った。

ベイリーが成功したのは、小生が外科医になった年の20年前にしか過ぎない。当時は、患者さえ了承すれば医師の考えで患者の生死を左右する手術が許された。今では新しい手術は医師、個人の「倫理」で行うことは許されない。機関の「倫理委員会」で審議され、その経過が開示されてから行われる。医療が多岐にわたり分化し高度になった現在、1948年のベイリーのようにはいかないのである。患者のみならず医師の倫理観、価値観も多様化しており、個人の判断だけでは「独善」といわれてしまう時代になってきている。「犯罪行為」とさえいわれることもある。移植医療、生殖医療はその代表であろう。

小生は、パターナリズムが良いとか悪いとかを論じたいのではない。絶対と思われている「倫理」も変わるということを知らなくてはならないと言いたいのである。これが、このコラムの結論である。余話を記す。

1980年、5月、小生は、サンフランシスコで開催された米国胸部外科学会に参加した。心臓の僧帽弁に人工弁を装着する手術を僧房弁置換術というが、それに用いる人工弁を開発したビジョルク博士が手術後の5年、10年を経た成績を発表した。演者と聴衆との意見の交換となった。すると、かくしゃくとした老人が発言を求めた。その老医師は、「私が開発した僧帽弁の手術は、30数年たったいまも行われている」と誇らしげに語った。発言者は、ベイリーその人であった。



      

 
vol.10
  旬の過ぎたはなし−「ノーベル賞」
2003-4-28
 
 

コラムにも「旬」がある。そう言いなながら「旬」の過ぎた話をする。「ノーベル賞」にまつわる話である。「ノーベル賞」についてどなたもご存知と思うが、小生が知るところを、少々、披瀝させていただく。

19世紀後半、富を築いたスウェーデン人のアルフレッド ノーベル(1833〜1896)の遺言により、国籍を問わず人類に貢献した人に授与される「賞」である。物理学賞、化学賞、医学・生理学賞、平和賞、文学賞、経済賞がある。物理学賞、化学賞、経済賞はスウェーデン王立科学アカデミー、生理・医学賞はストックホルムにあるカロリンスカ研究所、文学賞はスウェーデン・アカデミー、平和賞は、ノルウエーの国会で選出される。毎年10月に受賞者が発表され、ノーベルの命日である12月10日にストックホルムで受賞式が行われる。平和賞はノルウエーのオスロで行われる。

1901年、最初の「賞」が5部門6人に贈られたが、そのなかで、今でも良く知られている人はX線を発見した功績により物理学賞を受与されたW.K.レントゲン(ドイツ)と、国際赤十字社を創設した平和賞のアンリー ジュナン(スイス)である。経済賞は1969年にできた。昨年までの受賞者は、705人、19団体(延べ)である。日本人は12名で、最初の受賞者は1949年、物理学賞の湯川秀樹氏、昨年は物理学賞に小柴昌俊氏、化学賞に田中耕一氏が受賞されたことは記憶に新しい。

4月10日、小生は、「生体巨大分子を量る」という講演を約10倍の難関を突破し拝聴する機会を得た。講師は、ノーベル賞、受賞者の田中耕一氏である。受賞の対象となった業績、「生体高分子の同定および構造解析のための手法の開発(ソフトレーザー脱離イオン化法)」の講演であった。「賞」の対象となった業績内容を一般市民に講演するのは今回が初めてであると言っておられたが、そのためか、聴衆には若干難しかったようである。現在、病気の早期診断に応用するため努力をされておられるとのことで、小生は楽しく聞くことができた。

小柴昌俊氏の受賞も喜ばしいことである。氏の業績はメディアによる詳細な解説、対談などを通じ理解している積もりである。難しい素粒子論を一般市民にもわかりやすく説明されるお力は講義、学会、各方面との交渉で培われたためであろう。

田中耕一氏の講演会を主催した団体代表のお一人が挨拶で述べていた。「お二人の業績で共通していることは、対象は異なるが『物の測定』に関することである」と言う。小柴氏はニュートリノの捕捉、田中氏は蛋白質(巨大分子)の重量測定である。ともに日本の中小企業でしかできない技術が応用されているとのことである。今回の受賞は、日本の科学者の知識と中小企業のもつ卓越した技術がもたらしたことを強調されていた。挨拶された人は、日本分析機器工業会の会長である。日本の中小企業界に対するノーベル賞でもあったようだ。

以上、ノーベル賞について小生の知るところを披露したが、今回のコラムは、小生が研究室にいたころ経験したささやかな話を記すことが目的である。

1976,7年頃の話である。研究室で先輩と雑談をしていた時、先輩が「研究会にフォルスマンという方が参加するので、これから迎えに行く」と言って席を離れようとした。小生が、「ドイツの方ですか」と尋ねたら、「そう」と返事をされた。「ドイツのフォルスマンという名前を聞くと、小生が関係する仕事の分野のフォルスマンを思い出す。その方は、アメリカ人のクールナンが心臓カテーテル検査法の開発でノーベル賞を授与された時一緒に受賞した人で、若い頃、自分の腕に細い管をいれレントゲン検査室まで歩いて行き、心臓に到達していることを確認したが、病院から変人扱いされ寒村で開業せざるを得なくなった。後年、ノーベル賞の受賞の知らせを聞いたとき本人が一番驚いたそうです」と、意味のない話をした。1956年のノーベル医学・生理学賞にまつわる話であるから、当然、二人は別人である。

数日後、先の先輩にあった。「例のフォルスマンの話だけど、本人に聞いたら父親のことだと言ってとても喜んだよ。兄弟が多かったこと、生活は貧窮を極めたことなど話が弾んだ。有り難う」と言われた。ただ、それだけの話である。それ以来、なぜかノーベル賞が身近になった。

ノーベル賞は、「新しい分野を開拓・大成し人類に貢献した人に贈る賞」であることは周知のことであるが、田中耕一氏、フォルスマン氏のように新しい分野を拓く切っ掛けを作った人を草の根も分けて探し出しその功績を称えるという「賞」は、やはり人類最高の「賞」である。つけ加えると、第一回の平和賞を受賞したアンリージュナンは35歳の時、事業に失敗し行えがわからなくなっていたが、老年、ジュネーブ郊外の養老院で「受賞」の知らせを聞いたと言う。67歳であった。

「旬」の過ぎた話であった。田中耕一氏の講演が、ノーベル賞のこと、研究室時代のことを思い出させた。小生も、昔、何かやったはずである。びっくりする知らせが来るかな。


vol. 1  医療の質  vol2 医療の質−その2 vol3 医療の質−その3
vol. 4  医師の心  vol5 医師の心−その2 vol6 看護婦さん
vol. 7  インターネット vol.8 職名 vol.9 戦争倫理学
vol.13 刑法第134条 vol.14 素人の教育論 vol.15 格付け
● vol.16 流行 vol.17 災害医療 vol.18 無題
● vol.19 シーベルトの娘:看護婦資格制度の黎明 vol.20 ユ・カンナラちゃんを偲ぶ vol.21 心蘇生
● vol.22 5年後の告知 vol.23 漢字の日 vol.24 評価
● vol.25 人体標本の値段 vol.26 NBM:医療概念の変遷 vol.27 文化の日
● vol.28 喫煙と終末期医療

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