医師として、武士として     安藤 武士 Andou takeshi


 
vol.6
  看護婦さん 2003-1-03
 
 

法が改正され「看護婦」が「看護師」となった。看護業務に携わっている人たちの職名が変わっただけであるが、声をだして読むと響が違う。学校の「せんせい」と「教師」くらいの違いではあるが。小生は、その違いを文字にすることはできない。

私事である。小生の生まれた年に父は医院を開業した。数人の看護婦さんが父の仕事を手伝っていた。父に遊んでもらった記憶は無い。母に背負われた記憶も無い。いつも、看護婦さんと一緒にいた。いたずらしては追いかけられ、お仕置きを受けたことも幾度となくあった。温泉に連れていってもらったことが懐かしく思いだされる。10才くらいまでそんな環境で育った。「看護師さん」であったら事情が変わっていたかもしれない。いつも勉強させられていたかもしれない。緊張してしまう。やはり、小生にとっては絶対「看護婦さん」でなければならなのである。温もりがある。

これも、私事である。昭和43年、インターンを終え母校の外科に所属し4年の研修を修了し、肺外科、血管外科、心臓外科、いわゆる胸部外科を専攻した。その頃から手術が盛んになった乳児心臓疾患が小生の臨床研究テーマとなった。日本では総てが新しいことであった。われわれ新人でも「診断」と「術後管理」の分野で力を発揮することが出来た。

小生の受け持ちの乳児がICUに収容されたときのことである。深夜から朝方まで、一度もICUからコールされない日があった。希なことであった。翌日の「夜の勤務」のときも、早朝になってもコールされなかった。気になってICUに行くと、人工呼吸器が装着された患児は泣き顔で、手足をばたつかせていた。昨晩と同じ看護婦が受け持ちであった。鎮静剤投与の指示をだした。看護婦は指示薬を輸液ラインに注入する前に、空いている手でおむつに触れた。そして、黙っておむつを替え始めた。患児は騒ぐのをすぐ止めた。おむつの交換を終えると静かになった。鎮静剤は不要になった。

小生が教える立場になったとき、呼吸管理の要点として「患児がむずがゆったら、まず、おむつに手をあてること」と指導したら、新人医師にけげんな顔をされた。後日、「学問」以前のことであることに気が付いた。現在の教科書にも載っていない乳児診療の基本を、看護婦から教えをうけた。

このコラムで、乳児心臓外科の術後管理を述べる積もりはない。看護に携わっている人について述べたいのである。おむつを替えた看護婦は、小生が配属された病棟でただ一人のママさん看護婦さんであった。着替え、清拭、おむつの取り替え、あやしかたはICUでも、日常そのもの所作であった。やはり、「看護師さん」というより、「看護婦さん」といった方がいい情景であった。呼称はどうあれ、看護に携わる人に医学的、看護学的知識が必要なことは当然であるが「温かさ」、「日常性」は欠かせない要件と思っている。余計なことを言ってしまった。小生を教育したママさん看護婦さんは、どうしているだろう。

改正された「法」に抵抗しているのではないが、毎日、「看護婦さ〜ん」と大声をあげ診療をしている。呼ばれている「看護師さん」は、どう思っているのだろう。


 
 vol.5
  医師の心−その2
2002-12-06 
 
 

「臨床倫理学」という学問があることを知った。講座がある大学もあるという。知らなかった。自身の不明を恥じている次第である。ご存知の方もおられると思うが、まず、「臨床倫理学」とはどんな学問であるかを解説させていただく。臨床雑誌(1)から得た知識である。

「倫理学」を辞書で調べると、「人間の行為の善悪の標準・徳・良心などの道徳について研究する学問」と記されている。「臨床」と冠してあるので、「診療・治療」が「人間の行為」に相当する。従って、「臨床倫理学」とは、「医療人の診療・治療にさいしての善悪の標準・徳・良心などの道徳について研究する学問」ということになる。昨今、医師が世の指弾を受けていることと大いに関係のある学問である。

解説によれば、臨床倫理学は「今、この患者に何がなされるべきか」という臨床現場の具体的問題を解決するための活動であるという。空理空論、議論のための議論でないという。最善のアウトカムを出すということを目的とする。そして、「何が最も善なのか」また「何が正しい決断なのか」を具体的、個別的に考えることがもっとも重要な活動になる。

例をあげ説明している。「末期肺癌患者に心肺蘇生をすべきか否か」を検討する場合、まず医学的適応を考える。成功するかどうかが関心事となる。これは、医師の医学知識と医療技術の問題である。一方、倫理的側面を含めて考え始めると状況はかわる。患者は、自分が置かれている状況を理解しているか、患者は心肺蘇生を希望しているか、延命効果を差し控えることは認められるか、心肺蘇生は医学的に有益か、家族の希望にしたがって心肺蘇生を行ってもよいのか、儀式的な心肺蘇生は行うべきか、患者本人に心肺蘇生に関する希望を聞いてもよいか、DNR(心肺蘇生をしない)オーダーは医療従事者だけで決めてもよいか、など多くのことが医師の関心事、考えなければならないことになる。

これらを解決しながら診療・治療にあたるが、解決に際しひとつひとつの倫理的側面の核となる基本的知識が必要である。しかし、マニュアル化されうる知識を記憶しておくことは必要条件であるが十分条件ではない。患者にとって最善のことをしようとうい気持ちを持つことで十分条件が満される。また、自分は医師として好ましい「人間性」をもっているかを省みる必要がある。患者の苦痛に敏感であり、共感でき、思いやりがあり、誠実に他の人に接し、謙虚であるかだけではなく、他にも多くの人間性が求められる。

前々回(Vol.3)のコラムに、外科の大先達が自書「外科今昔(2)」で「外科医は善くなければならぬ」と述べていることを記した。また「 善いとは何か、口にもいえず、文字にもすることも難しい。自ら悟る以外にない」とも語っている。臨床倫理学の解説者も「どのような行為が正しいのか」というレベルを越えた「正しいとか、よいこととは何か」とうい根源的な問いは、哲学の歴史が始まって以来、議論されており一言で説明できない難しい問題であることを指摘している。小生が、独り静かに考えても結論が出ないわけである。解説者はブラックバーン(3)の著書を紹介している。

ブラックバーンは、『・・・。幸いなことに、人は数え切れないほどささやかなことではあるが確かなことを知っている。幸福はみじめさより好ましく、尊厳は屈辱よりよい。人に苦痛を与えることはわるいことで、社会や文化がそれに目をつむることは許しがたことである。そして、死は生きることよりわるく、人々と共通する見地に達しようとする試みは、人々をだまししたがわせるより間違いなくこのましいである。・・・』と、市井の総ての人が持つ根源的な問に応えている。

医師も市井の一員である。一員である以上、まず「市井の、ごく普通の人」の根源的な倫理を備えていることが「善い医師」の必要条件ではなかろうか。医師だからだといって、特異な倫理を必要とする訳ではないのである。

医師は、自身を「普通の人」と思うことが一番、難しいようであるが。



参考書:1)浅井 篤:臨床倫理―事例からみるジレンマ克服への挑戦.内科89(2):337−342、
       2002、
     2)中田瑞穂:外科今昔、文光堂、1958、 3)Blackburn S:Being Good,Oxford
       University Press,Oxford,p129−135,2001

 
vol.4
  医師の心
 2002-11-21
 
 

コラムニストの尾崎 雄氏が、02/07/10のコラム(Vol.10)に、次のような文章を寄せておられた(要約してあります)。

知り合いの女性の医師より ・・・。医療ミスを隠蔽する体質の医療界に改革が必要ですし、またマスコミや警察の、医療に対する攻撃、そこには明らかに嫉妬がある、ということも、見抜いていく必要があるというメールを戴いた。私は元マスコミ人。「警察の嫉妬」はともかく、マスコミの医療に対する「嫉妬」の意味が分らない。マスコミの医療にたいする「不信感」なら分るのである。医療界本流の医師・医療機関に対する不信感が年々募ってきた。強まる医療不信。それは医療人・医療業界人を除く一般の人々の偽らざる生活実感ある。それを「嫉妬」と感じる所が医療人の医療人たるゆえんかもしれない それほどまでに医療人とそれ以外の一般人との間には深くて暗い河がながれているのか、と。

「嫉妬」は、「やきもち」、「悋気」と辞書にでている。メールの女史は、医師以外の人からご自身を「やきもち」をやかれる立場にいると思っている訳である。尾崎氏はそれを、「医療人の医療人たるゆえん」と表現しておられるが、医師は「尊大」であるといっておられるのであろう。小生も、今日の医療問題の根底には、医師に「医師の医師たるゆえん」があるためと思っている。また、「医師」と「それ以外の一般人(と、言うことにも抵抗を覚えるが)」との間には深くて暗い河が流れていることを小生も強く感じていのである医師は、自身を「他の人とは違う」と思っているのである。次の手紙をお読みいただきたい。

先月、年配の医師より戴いた手紙の一部を披露する。所属施設の「医師に対する待遇」に抗議した書簡である。『・・・・。そうゆう日常が医師の気持ちのなかにある種のnoblesse obligeの感覚を形成することも理解なさっている筈です。ご存知でしょうが念のため申し添えますとnoblesse oblige の原語はフランス語で[諺]高き位に重き務めあり−に相当し{高い身分には(道徳上の)義務が伴う}ことを意味しています。もともと、勤務時間など意に介さず、患者さんの容態によっては何日も続く深夜労働にも休日出勤も厭わない医師の心身をささえるのはまさにこのnoblesse obligeの感情に他なりません今回の措置は見事にこの感情の根元の一つを突き崩し、医師の職分を一般職員と同等なレベルまで貶めるものと考えられます。・・・・』

まさに、尾崎氏の指摘する「医師の医師たるゆえん」であることを示す書簡であろう。しかし、書簡に記されているような医師の生活から『医師には重き務めあり』というと、『医師である誇り』が熟成し、根付いていくことも事実である。「高い位」、「高い身分」と医師、自ら述べることに小生は恥ずかしさを覚えるが。

今年、研修医が過労死と認定されたことを契機に、研修医を労働者と位置づけ待遇が改善されることになった。どのような位置づけにせよ待遇が改善されることに異論を挟む研修医、医療人はいない。しかし研修医自身、「仕事の対価として金銭を求める者、労働者」であるという意識が希薄であることも事実である。診療の第一線にいる医師の念頭にも、勤務時間、時間外手当て、サービス残業などの文言は存在しないようである。前近代的なのであろうか。後方に退いた小生には分らない。

袋だたきにあっている「医師の心」の一端を述べた。ご理解いただければ幸いである。


vol. 1  医療の質  vol2 医療の質−その2 vol3 医療の質−その3
vol. 7  インターネット vol.8 職名 vol.9 戦争倫理学
vol.10  旬の過ぎたはなし−「ノーベル賞」 vol.11 「倫理」の変遷 vol.12 赤十字とナイチンゲール
vol.13 刑法第134条 vol.14 素人の教育論 vol.15 格付け
● vol.16 流行 vol.17 災害医療 vol.18 無題
● vol.19 シーベルトの娘:看護婦資格制度の黎明 vol.20 ユ・カンナラちゃんを偲ぶ vol.21 心蘇生
● vol.22 5年後の告知 vol.23 漢字の日 vol.24 評価
● vol.25 人体標本の値段 vol.26 NBM:医療概念の変遷 vol.27 文化の日
●vol.28 喫煙と終末期医療

 

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