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vol.21 | 心蘇生 | 2005-11-22 | ||||
アメリカ心臓病協会(AHA)および医師会(AMA)では、6年ごとに新しい知見に基づく「心蘇生法の指針」を発表している。最近では、2000年8月に発表されたもので「ガイドライン2000」といわれている。 1992年、AHAは、心臓突然死の救命率向上には現場で早期に心蘇生術を行うことの重要性を説き、1993年、市民が使用することの出来る「自動体外式除細動器Automated External Defibrillator:AED(*)」を開発し、市販した。2000年、AHAは、一般市民が「AED」を用いるパブリック・アクセス除細動術(Public Access Defibrillator:PAD)の有用性を述べ、一般市民が心蘇生術に現場で積極的に係わることを推奨している。 2000年10月、全国に普及させるための具体的法案が議会を通過した。2005年までに、アメリカの飛行機の国内、国際線にAED配備を義務つけ、その他、空港、カジノ、一般企業等にも配置するよう普及予算2500万ドルが計上された。その結果、シカゴの飛行場に居合わせた一般人が、AEDを用い心肺停止者の61%を救助したという報告があるばかりでなく、ラスベガスのカジノでも高い救命率が記録されている。 日本医師会は、アメリカの「ガイドライン2000」に基づき「ACLSトレーニング 日本の病院外心肺停止は平成15年では163、000人とされているが、かなりの数が心室細動という致命的な不整脈によるものと推定されている。平成14年、高円宮様が競技中に心室細動で倒れられ、救急車で最寄の病院で心蘇生術をお受けになられたがお亡くなりになった。蘇生術をお受けになられたのは倒れてから約20分後と言われている。心室細動発生から心蘇生までの時間が1分遅れる毎に、蘇生のチャンスは7〜10%づつ減少すると言われているので、早期に蘇生術をお受けになっていれば救命された可能性もある。 本邦でも平成15年の法改正で航空機の乗務員、救急救命士、条件付きで医療従事者以外の一般人が「AED」を使用することが可能となった。また、消防士、警察員、交通機関の乗務員のほか体育教師、ジムのトレーナーも「AED」の研修を受け認定を受ければ、「AED」の使用は可能である。心臓外科医であった小生には、受講に際し若干の抵抗があったが、過日、「AED指導者研修終了証」を手にし肺停止に対し新たな心蘇生法を身に着けることが出来きた。 今年、開催された愛知万博の会場にも60〜70m間隔で約100台の「AED」が設置された。6月初旬までに3例の心肺停止者に「AED」が使用され救命できたと報道されている。日本の航空機にも3,4年前から搭載されている。また、医療機関にも設置が進んでいる。いずれ、新幹線にも装備されることとなるであろう。 35年前の出来事と記憶している。外科医になって2年目を迎えたころの話である。上野駅発の上越線、特急ときに乗った。初老の着物姿の女性と3人の女性が座席を迎え合わせに座った。小生はその後部座席にいた。ときは発車した。 記事には、最初にきた医師は「40歳すぎの黒ぶちの眼鏡をかけた体格の良い医師」と記されていた。小生は"30前"である。別人であることにした。悲しかった。 ともすると、小生の人生も変わっていたかも知れない。思い出すこともあるが「これで良かった」と思うようにしている。コラムを家人が見ないことを祈っている。
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vol.20 | ユ・カンナラちゃんを偲ぶ | 2005-09-18 | ||||
過日、「21年前募金で心臓手術 ユ・カンナラさん死亡」という短い新聞記事が目に止まった。「ユ・カンナラさん」と言っても、殆どの読者はご存知ないと思う。 記事を紹介する(朝日新聞 05年6月11日)。 当時のインドシナの政治情勢は混沌としており、ことに動乱後の難民問題が注目されていたこともあり、先天性心奇形を持つ難民の子供が、関係者の支援で困難な問題を解決しながら手術をすることになったということが話題になった。連日、多くの新聞、雑誌、テレビで報道された。記者会見も行われた。「手術」を放映したいというテレビ局の申し入れもあった。無論、お断りした。多くの市民から義援金も寄せられたが、当時の都知事が国民健康保険を適応する措置を執ったため、医療費の問題は解決したと聞いている。 小生が初めてカンナラちゃんに会ったとき、母親ではなく父親に抱かれていた。一度も父親以外のご家族にお会いした記憶はない。母親、兄弟姉妹のことも分からない。難民生活のため家族が離散したのであろうか。 心奇形を持つ難民の子であったカンナラちゃんが、苦難を超えて市井の一員のカンナラさんとなり平和に生活できるようになったことは、多くの日本人の支援があったためであるが、「カンナラさん」は、日本人に「難民問題」に関心を持たせただけではなく、自ら行動を起こす起爆剤になったと思っている。当時のことを回想しながら、異国の地で若くしてお亡くなりになった青年、ユ・カンナラさんの冥福を祈っている。
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vol.19 | シーボルトの娘:看護婦資格制度の黎明 |
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敬愛する故司馬遼太郎氏の講演録(*)を読んでいたら、「シーボルトの娘が、日本で最初の看護婦の免許の持ち主である」とあった。驚いた。「シーボルトの娘」を知りたくなった。「日本の看護婦制度」にも興味を持った。 まず、シーボルトの娘の資料を探した。結局、吉村 昭氏(新潮社)の筆になる「ふぉんしいほるとの娘」が歴史小説(*)ではあるが考証も多く生涯を忠実に描いてあると思われた。 明治7年、第一回医術開業試験が実施され医師の資格制度が始まるが受験せず。25歳以上の開業医に、試験が免除される世間で「お情け免状」といわれる「開業医免状」が与えられる。明治8年、福沢諭吉より教育者としての活躍を勧められるも辞退。伊篤、57歳。日に日に急速な進歩をする医学から取り残されていることを知り一線から身を引く。明治36年8月26日、77歳で波乱に満ちた一生を閉じた。 看護婦資格制度である。以下、山下麻衣氏(*)の研究論文による。明治7年(1885年)、「医術開業試験」が実施された年に初めて看護婦養成制度、養成所が出来た。慈恵病院の有志共立東京病院看護婦教育所である。1886年には同志社大学社病院京都看護学校および桜井女子学校看護養成所、1888年に帝国大学看病法練習科、1890年に日本赤十字社看護婦養成所が設立された。養成に必要な資格は、読み、書き、算数が必要とされた。看護婦は知識のある士族や商業を営む家庭の女子で経済的自立を望む、もしくはそれを余儀なくされた女性たちの選ぶ職業となった。全国的な看護婦資格や業務内容の統一が実現したのは1915年(内務省令第9号)、指定校の教育を受ければ資格が得られる時期を経て、「保健婦助産婦看護婦法」に基づく国試家験により国家免許制度になったのは、戦後の1951年である。 シーボルトの娘、"おいね"さんが、日本の「看護婦一号」であったという故・司馬良太郎氏の記述の根拠となる事実は見あたらなかった。医師も看護婦にも資格制度のない時代に、産科医として活躍していたわけであるから、今日の「医療制度」から「助産婦」「産婆」と位置付けたのかも知れない。助産婦制度の変遷についてしらべた(*)。古来、出産は一人であるいは家族・近隣の出産経験のもった年輩の女性等の援助を受けて自宅でおこなうものだった。「トリアゲババ」「トリアゲバアサン」「コトリババ」「コナサセ」「コゼンボ」などと呼ばれていた。村における出産という一大事を担う彼女たちは、地域におけるお産の相互扶助の紐帯でもあり重要な位置を占めていた。「トリアゲババ」が、全国で「産婆」と法律上呼ばれたのは明治以降である。明治7年(1874年)、明治政府は文部省通達「医制」を通達し、「トリアゲババ」を「産婆」という職業として認定し取締規則を作った。しかし、資格試験は課していない。 結局、江戸末期から明治初期にかけて日本で最初の女性産科医として活躍した事実しか分からなかった。司馬遼太郎氏は、明治になり医師としての公的資格を取らなかったため、江戸からの産科医を産婆、助産婦と位置付けたためなのかも知れない。明治2年、時の兵部大輔(軍事大臣)、大村益次郎が京都で暴漢に襲われ重傷を被い、大坂仮病院でボードイン、緒方惟準らの医師団の治療を受けた。そのとき看病にあたったのが宇和島で知己のあった伊篤(おいねさん)である。この大坂仮病院で西洋医師団に混じり看護に尽くしたことが、大村「贔屓」の司馬氏をしてそう呼ばせたのかも知れない。 最後に、講演で司馬氏はこう結んでいる。"いね"とシーボルトは幕末に対面しています。そのときシーボルトが言った言葉は印象的なものでした。「いい顔をしている」さらに付け加えました。「医学があなたの顔をつくったのだ」 すでにシーボルトは老人でした。自分が日本に残した娘の、赤ちゃんの写真を一生持っていたそうです。その娘が成人して医学の勉強していると聞いて喜び、対面してさらにその風貌に喜んだ。要するに医学というものは非常に厳かな学問である。そして人間にとって本来,親切という電源を発する学問なのです。 結論の出ない調査であった。しかし、敬愛する司馬遼太郎氏の「日本で最初の看護婦免許の持ち主」の文言で、色々な歴史を学んだ「お盆休み」となった。お付き合いして頂いた読者に感謝いたします。 (*)参考
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● vol.
1 医療の質 vol2 医療の質−その2 vol3 医療の質−その3 |
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