村松 静子 Muramatsu Seiko

1947年生まれ。日本赤十字中央女子短期大学卒。厚生省看護研修研究センター、明星大学人文学部心理教育学科を経て、筑波大学大学院修士課程教育研究科カウンセリング専攻修了。日本赤十字社中央病院、秋田県立脳血管研究センター勤務後、日本赤十字社医療センターICU看護婦長、日本赤十字中央女子短期大学専任講師、日本赤十字看護大学兼任講師を経て、在宅看護研究センター設立、代表就任。
現在、在宅看護研究センターLLP代表、看護コンサルタント株式会社代表取締役、日本在宅看護システム有限会社取締役、日本赤十字九州国際大学客員教授。看護の理論と実践の融合を目指し、看護実践をおりた後も、あくまで『看護』にこだわり、看護関連のコンサルティング事業、教育事業に精力的に取り組んでいる。
著書に、「看護の実力 訪問看護・開業ナースはゆく」(照林社)、
「新体系看護学36 在宅看護論」「事例で学ぶ在宅看護論」(メヂカルフレンド社)、
「その時は家で〜開業ナースがゆく」(日本看護協会出版会)、「開業ナース」(在宅看護研究センター)、
「患者ケアの実際1・2」(医歯薬出版)、「臨床看護婦の自立」(日本看護協会出版会)、
「在宅看護への道」(医学書院)、「在宅介護の技と心」(合同出版)、「めざせ!開業ナース」
(日本看護協会出版会)「自分の家で死にたい」(海竜社)、「心と絆といのち」(看護の科学社)ほか。


 

起業家ナースのつぶやき
看護することを心から愛してやまないが故にぶつかる壁・壁・壁。
長年に渡る自らの経験と積み上げてきた実績から、
看護を取り巻く社会へ、そして看護職へ、熱く厳しいメッセージを送ります。

 

 
vol.45

 フレキシブルな教育が求められている

  2008-1-17
 
  現在の日本の医療教育は大きな問題を抱えているようにみえる。超スピードで少子化に向かっているにもかかわらず、進歩する医療技術に追随すべく、看護大学の未だ設置され続けている。確かに、看護師の社会的地位の向上は必要である。しかし、現在の医療のその様をみると、現場と専門とが乖離し、それが広がっているようにもみえる。サービスの専門分化も必要だが、それは病院内の一部のことであって、医療のほとんどは現場であり、現場を無視した専門はあり得ない。

私に届いた1通のメールが、私のこれまでの考えをさらに揺れ動かした。 

・ ・・「看護研究センター」が、これから医療従事者を志す人たちの窓口となり、病院であれ在宅であれ、そうした人々が医療の現場を体験する機会を与えられ、取得可能な資格としては、おそらくは看護師またはヘルパーだけであるにしても、こうしたフレキシブルな医療教育の先駆的な試みは、将来日本の医療教育を大きく変えていくことになるものと確信します。希望学生を「在宅看護研究センター」の登録学生とし、放送大学や各地域の提携先の大学、看護学校(固定せず任意に選択・大学のコンソーシアムのようなしくみ)また病院や訪問介護、看護施設等で、スクーリングや実習を行い、所定の単位を取得するという、いわば単位制看護学校だ。このシステムにより、学生はあれこれ悩んだり模索したり時には休みながら充分に時間をかけて、そして自分のペースで、将来自分が目指す看護師の道を探ることも可能となる。・・・

彼は自らの体験を通して疑問を投げかけている。

*嫌で辞めていくのなら仕方ないが、本人が教育の現場において疑問を抱えながらも、所定の単位を修めればシステムとして資格が取得できるというあり方が、このまま営々と続いてよいものかどうか。

*医療の教育現場でつまずいた者を救済しうる新たな医療教育のあり方を模索することも必要ではないか。放送大学や所定の病院での実習、看護通信教育等により、准看有資格者を看護師にする制度はできているが、最初から「固定した学校を持たない看護師養成制度」があってもいいのではないか。

私はこの考えに賛同できる。日本の教育のなかでは、迷い、疑問を持つことが許されず、それは逃避とみなされる傾向にある。納得いかない授業でも受け、たとえどうであれ、選択した医療資格を取得するか、耐えられなかったら辞めるしかない。辞めることは「逃げ」と受け止られる。しかし、リタイア組は年々増えているのだ。現在のように通信教育と実習で准看を看護師に昇格できるのなら、一定のゆとりある期間を設け、所定の通信教育と実習を経て看護師の資格試験を受験可能な教育制度を生み出すべきであろう。

医療の質が様変わりしつつある一方で、医療教育のあり方は、いまだに医学部を頂点に、看護学部、看護学校(他医療専門学校)等のように、その資格と教育施設が固定され、選択肢は無に等しい。これは欧米、特に米国とは大きく異なる。他国では、看護師が医学部に進み医師になり、医学生が医者は自分には合わないと感じたら、医師ではなく看護師や技師になることはめずらしいことではない。

vol.44 看護の自立をはばむもの その6
         :本当にこれでいいの?
  2007-7-28
 
 

最期は住み慣れた家で・・と、在宅を推進し、これからもっと大事な時期に入る高齢大国わが日本。しかし一方で、訪問看護ステーションが次々に廃止届を提出している。
「いや、増えていますよ」って、本当? そんなことはあり得ない。看護師が看護の質にこだわって経営してきた開業ナースも「もう続かない」と諦めかけている。在宅医療推進の要は医療と福祉の狭間で動く看護師と言っても過言ではない。それぐらい、ナースの役割は大きい。とはいえ、24時間必要な時に駆けつけるというスタンスのもとに必死に続けてきたナースたちが在宅看護への取り組みをやめ、看護師という職業から離れていくとしたら、在宅での最期の看とりなど、夢の夢になってしまう。本当は、一工夫あるだけで彼女たちの思いは叶えられるのに・・喰い止められるのに・・なぜ食い止めないのか。なぜそんな事態が起こるのか。なぜそのまま放っておくのか。そう思いつつ言葉にしないでじっと耐えていた私だったが、もう我慢の限界。言いたいことは山ほどある。しかし、ぐっと耐えて1つだけ言おう(ナースの身勝手さ等課題もあるが、今回はこの点には触れない)。

その最大の理由は診療報酬の低さに加え、ただ1つ、「人員に関する基準:看護職員は、常勤換算で2.5人以上である」という事項がクリアできない点にある。収益をあげるまで、法人づくりからすべてを一人で行うことになる。どんなことで開業する場合でもそれはほぼ同じだが、バイトをしながら商品を考案し、製作して大量に売るのとは異なる。1件訪問して、交通費込みの素手で行う心身看護への対価収入のみである。自分の生活費と保険料、家賃、交通費に通信費、光熱費は必ず出て行く。それらが払えるようになって初めてスタッフを増やすことができるのだ。人件費が70%の訪問看護ステーションを独立して進めたいと願うナースに、最初から2.5人で始めろというのはあまりに酷な条件である。元金がなかったら、開業などすべきではないという人もいる。開業などと生意気なことを言わずに、雇われればいいじゃないかという人もいる。

プロとして、自ら行う看護の業を社会に開くことには意義がある。自律と責任を伴うが、喜びも伴う。看護の職人としての誇りがある。

フランスでは、私がこの世に誕生する2年前の1945年から「自由開業看護師」が誕生し、今では医師との連携を図りながら、高齢者を対象に、その力量を発揮している。
もちろん、何処の国でも、医師会からは、最初、看護師が開業するなんて・・と総スカンを食ったという。しかし、この時勢にありながら、そんなことを言う医師はそれほど多くは居まい。私が開業する時に応援してくれたのは専門医だったのだから・・。
この時勢だからこそ、開業ナースは、かかりつけ医や雑用に追われている専門医などを補佐することができると、私は確信している。

諸外国での開業ナースは、1つ1つの壁を乗り越え、確実に社会に認められてきた。
わが日本でも、もうそろそろ「開業看護師は可能かどうか」というプロジェクト調査を行い、「看護が開業するのは、実現可能である」との評価をいただいても良いのではないか。

いずれにしろ、このような事態を知って知らぬふりをしていられないのが、私の悪さであり良さでもある。20年以上、家族の協力を得ながら在宅看護の道を歩み続け、今年還暦を迎えた私にできることはあるのか。同年齢者は定年を迎え、のんびり生活を送っている人も多い。このままそっと手を引き、この道を外れる方が楽ではないか。自問自答の日々を送った結果、私の最後の仕事として行動を起こそうと決意した。とはいえ、「また大変な思いをするの? それはどうして?」と、もう一人の私が言っている。

とうとう一人開業を果たせなかった団塊世代の私がこれから行うことは、「ステーションの常勤換算はやっぱり5人じゃなきゃダメよ」と言っているその人の考えも汲んだ上で、開業したいというナースの意識を維持し、24時間365日その人に合った方法を極力生み出しながら最期まで支え抜く看護機能のシステムづくりである。
                    

 

 

vol.43
開業ナースとしての新たな挑戦
  2007-5-14
 
 

無我夢中で取り組んできた在宅看護、気がついたら、30代だった私が60歳になっていた。団塊の世代の定年退職。本来その一人のはずの私なのだが、未だにウロウロしている。どことはなしに、何とはなしに、空虚感を感じるというのは私の本音である。しかしそうも言ってはいられない。自分がしたいと思い、行ってきたことを放り出すわけにはいかない。

「助けてください」の家族の言葉に動かされ、11名の現役看護師が寄り集まった訪問看護のボランティアチーム、その名を「在宅ケア保障会」という。1983年2月6日、訪問看護は、その看護師たちの夜勤明けや休日、つまり課外で始まった。そのボランティアチームの活動に終止符を打ったのは、1986年3月24日のことであった。有限会社として法人格を取得したのである。何で会社なの? 営利追求じゃない?・・そんな非難の声もあがった。しかし私は法人にしたかった。ただそれだけだった。当時はNPO法人などなかった。商号を『有限会社 在宅看護研究センター』とし、籍を置いていた看護大学設立準備室を離れた。その際、私には同僚に遅れをとるのではないかという不安があった。そこで迷わず「研究」という二文字を入れ、さらに、「在宅ケア」ではない「在宅看護」「センター」にもこだわった。今は亡き作家・遠藤周作氏にその思いを伝えると、すぐさま賛同してくださった。そして、在宅ケア費用援助制度を設けるなどの後押しまでも・・。あの時のやりとりを私は決して忘れはしない。私は、1992年4月1日、『有限会社 在宅看護研究センター』を解散し、個人事業開始届を提出した。もちろんその名称は『在宅看護研究センター』、訪問看護部門と研究部門の2つの柱を立てての再出発である。自分がめざしている方向を見定めながら探って行きたかった。私は幸せ者である。苦しい時には必ず誰かが後押ししてくれた。そして現在に至っている。

この3月、嬉しいことがあった。私が知らない間に、スタッフ皆で私の誕生日と還暦の祝いを計画し実施してくれたのだ。考えてもいなかっただけに、その喜びは言葉で言い表せないほどだった。在宅看護のいばらの道が舗装されたとはいえ、21年間は長かった。しかし、ひたすら歩き続けてきてよかったと感じた瞬間でもあった。彼女たちに感謝である。

今当社では、団塊ジュニアたちが動き出している。明らかに世代交代の動きである。私が心から求めていた動きが、この時期にして見えてきたのだ。彼女たちは、私がこだわってきたことを軸とし、一方で、この時代に見合った組織をつくろうとしている。実に有り難く嬉しいことだ。私はその動きを止めることなく、彼女たち一人ひとりの持ち味を自分たちで気付き活かし合っていけるよう、密かに側面から支えていこうとしている。彼女たちならやってくれる。私はそう確信している。

                            

 

 

vol. 1〜3  「心」を思う その1・その2・その3

vol. 4〜6   看護の自立をはばむもの その1・その2・その3

vol. 7〜9   この時期になると浮かんでくるあの光景 その1・その2 私は言いたい、今だから言える

vol. 10〜12  看護の自立をはばむもの その4  開業ナースがゆく その1・その2

vol.13〜15  開業ナースがゆくその3 
看護の自立をはばむものその4-2 本当にほしいサービスができないわけ

vol.16〜18 点滴生活雑感 ともに創る幸せ 看護の自立をはばむものその5

vol.19〜21 ともに創る幸せ2 ともに創る幸せ3 ともに創る幸せ4

vol.22〜24 ラーニングナースを位置づける その1なぜ必要か その2応援団はいる
 ナースの私が抱く疑問〜1.痰の吸引

vol.25〜27  ナースの私が抱く疑問〜2 静脈注射 素敵なエッセイの贈り物 疑問は疑問、「今の時代って?」

vol.28〜30  看護師の資格の意味を問う  感受性を揺さぶる学習環境が必要なのでは?  ラーニングナース制

●vol.31〜33 40年の歴史をもつ企業内大学老舗『ハンバーガー大学』 
介護保険が抱える問題〜看護にこだわる開業ナースの視点から  恩師、國分アイ先生

●vol.34〜36 國分アイ先生の遺志を継ぐ 安比高原の女(ひと) 介護保険制度の次の手は介護予防?〜今、私が思うこと

●vol.37再び「心」を思う その1