起業家ナースのつぶやき 村松 静子 Muramatsu Seiko |
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vol.39
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「医療行為」、そこに潜む「矛盾点」 |
2005-5-1
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119番通報を受けた救急救命士が病院に搬送中、救急車内で除細動を試みようとしたが、除細動器が作動しない。病院内に到着後、当直医は別の救急患者の対応に追われていた。自らの判断で、医師だけが使用を認められている救急室内の除細動器を使用した。その後、当直医も除細動を行い、男性の心肺機能はいったん回復したが、翌日未明死亡した。 救急救命士を含め一般の人が使用できるのは「自動体外式除細動器」(AED)と呼ばれるタイプで、機械が心臓の動きを解析し、電気ショックを与えるべき状態であるかどうかを判断、電圧調整を行う。これに対し、医師用の除細動器は、電気ショックを与えるかどうかの判断や電圧調整などを医師が行うという違いがある。その違いがあることによって、「違法性は分っていたが、助けたい一心でやってしまった」という救急救命士は、法律違反容疑で書類送検される可能性もあるというのだ。 米国の医師たちは、救急処置に関する訓練を定期的に受けることが義務付けされていると聞く。つまり、医師であれば誰もが救急救命の技術を身につけているということになる。本来、それは当然のことといえよう。私は、すべての医療従事者に対して任務責任を徹底させるべきと考えている。 |
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vol.38
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在宅看護研究センター20回設立記念日を迎えて | 2005-3-24 | |||
3月24日は、私にとって忘れられない日である。看護の独立をめざして、在宅看護研究センターを設立しようと立ち上がり、法の壁を乗り越えて、私たちが独立開業することが認められた日だったからだ。 人間味のある温かな人柄の公証人は笑顔で語りかけてくれた。 看護師の国家資格って何なのか。ともあれ、3月24日、遡って登記されたのだった。
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vol.37
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再び「心」を思う その1 |
2005-2-25
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不安と葛藤に疲労が加担する中で、最愛の母の死を看とった娘が抱きついて来て言った。「辛かったけど、看とれました」。肩の力が抜けて、素直に顔を出した彼女の本心。耳元で囁くその言葉に胸が熱くなり、私は思わず強く抱きしめ返した。 「死と向き合う」と一言で言うが、愛する人が逝く姿を目の当たりにしながら、最期まで看とるには大変な勇気が要る。増してや、それを実現するなど、並大抵のことでは出来ない。そこでは、愛し合う二人が強引に引き離されようとしているのだ。最期のその時を目の当たりにすると、死の淵から引きとめたいという気持ちと、目の当たりにしているこの状況から逃げ出したいという気持ちが交錯する。さまざまな不満が淀み、張り詰めた、やりようのない心を生み出す。それが、心の葛藤となって現われる。 母の死に直面し、すでに傷を負っているその心は、果たして最後までそこに踏みとどまることができるのか、それとも逃げ出すのか。 愛する母への素直な思いを抱いた彼女の心は、逃げなかった。死に逝く母と向き合っているように、弱かったそれまでの自分とも向き合い、しっかりとそこで踏みとどまった。今起こっていることを疑うのではなく、真正面から受け止め、素直になって母の心に近づいたからこそ、彼女は踏みとどまることができた。 母は、どんな状況に置かれても、やっぱり母なのである。この危機的状況の中で、最愛の娘に、「強くなる」という最大のプレゼントを与え、その余韻を残して逝った。プレゼントの柔らかい紐は、やがて彼女の心の中でほどかれ、開かれた箱の中に眠っていた小さな芽が吹き、静かな成長を始めるはずである。それは誰の目にも見えない。しかし、強く、優しく、温かく、夢を抱かせる不思議な力を潜めている。 自分の心が不安にさらされることは嫌なことである。苦しいことである。しかし、私たち人間にとって、この不安感というものは、時には必要で、大切なものなのだと、私は思う。自分の欲求を妨げられることが漠然と予想されるときに経験するといわれる不安、起こるかもしれない恐怖や危険に対する取りとめのない情緒、それがなくなるということは、人間らしさを失うことにもつながる。真っ向から向き合うのか、それとも背を向けるのか、自分はどちらを選ぶべきか。心理的に身動きのとれない状態に置かれて迷い悩む、つまり、葛藤にも同じことがいえる。 自由が叫ばれる今の時代、若者の間で不可思議な現象が起こっている。どのようなことが起こっているのか、それらはなぜ起こっているのか、団塊の世代の私は心を痛めている。人間の心に潜む「不安と葛藤」の角度から、それらの現象が起こる理由について真剣に考えている。
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