市民の眼 尾崎 雄 Ozaki Takeshi |
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vol.30
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自分を騙すひと、騙さないひと |
2005-4-6
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柏木哲夫淀川キリスト教病院名誉ホスピス長(金城学院大学・学長)は講演の名手だ。ある大学病院で看護師を相手に行ったとき、こんなことがあったという。 |
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vol.29
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ケアの主役は高齢者――愛知県師勝町の回想法を見て |
2005-2-8
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先日、回想法で有名になった愛知県師勝町に行ってきた。回想法は高齢者施設などで痴呆ケアの一環として活用されているが、専門施設として回想法センターを作り地域ぐるみで回想法による介護予防に取り組んでいるのはここが初めてである。歴史民俗資料館の所蔵品と文化財に指定された古い住宅を高齢者福祉に活用したやりかたも画期的だ。 回想法とは、お年寄りの回想に伴う思いを共感をもって傾聴し、その思いを今と未来に活かしていく援助技術。懐かしい写真や生活品などを用いて、かつて自分自身が体験したことを語り合ったり、過去のことに思いをめぐらしたりすることによって脳を活性化させ、生き生きした自分を取り戻す心理・社会的アプローチである。師勝町思い出ふれあい(回想法)事業は、介護予防・痴呆防止を目的に平成14年度スタート。5年後の痴呆性高齢者予測数を10%減らし、そのぶん医療費と介護給付費を軽減するなど具体的な目標を持つプロジェクトである。 いちばん印象的だったことは、回想法の現場に携わる担当者の意欲と積極性だった。このプロジェクトを担当する総合福祉センターの小島恵美高齢福祉係長(保健師)は声を弾ませて語る。「ほかのケアに比べてお年よりがこれほど楽しいそうに、よろこんでやってくれるものはありません。支援者として、これだったら住民を巻き込んで一緒にやっていけると思います」。 お年寄りたちのために開かれる「回想法スクール」を見学すると、「子供のころの遊び」の思い出話が盛り上がっていた。故郷の山や海で魚を採った話をするとき、山村出身のお年よりも海辺で育った人も生き生きとした表情で、魚の捕まえ方を手振り身振り説明する。また、紙鉄砲などこの日のために自分で作った遊び道具を持参する男性もいた。その表情が実に楽しそうなのである。芸術家ならずとも「われわれは表現によって生きる」(オスカー・ワイルド著『獄中記』田辺重治訳)のだ。 「お年寄りが主役になれる」。プロジェクトの仕掛け人である遠藤英俊国立長寿医療センター包括診療部長は、回想法の意義をそう指摘する。グループ回想法の司会をする者は「あなたが主役」と回想のきっかけを提供するだけ。それは文字通りパーソンセンタードケア(当事者中心のケア)である。昔話や思い出話を語るとき、話し手はだれでも主役になれるからだ。お年寄りたちは舞台の上に立ち、福祉職らは観客席に座る。だから「お年よりのこんな生き生きした表情は初めて」という発見があり、担当者にやる気をかき立てるのだろう。 人間関係としての「ケアの力学」は「ケア提供者=強者」対「ケアを必要とする者=弱者」という構図になっている。そう指摘するのは文化人類学者の山崎浩司氏だ(『生と死のケアを考える』第5章)。施設から在宅へ、あるいは「小規模多機能ケア」へとケアのあり方は変わってはきたものの、そこにおける人間関係の基本構造は「ケアを与える者」と「ケアを与えられる者」という上下関係のままだが、回想法は、それを逆転する。 ソーシャルワーカーのアン・O・フリード・ボストン大学名誉教授によれば「回想は、その人の人生に起きたできごとを年代順にたどる以上の意味を持っている。さらに大切なことは、厳密には、それは人が自己のかけがえのない意味をとらえようとする努力であり、自分の人間性とアイデンティティについての最終的な主張であり、その人生の有為転変のおりにしてきた対処の集大成である。(『回想法の実際――ライフレビューによる人生の再発見』黒川由紀子ほか訳)。回想法は介護予防だけでなく高齢者の尊厳の達成に役立つのだ。 医療・福祉の教科書は個別ケアを説くが、ケアの現場では「個別性を無視する暴力」(山崎氏)がまかり通ってきた。山崎氏は、そんな「暴力」からお年よりを救うには「多様性への配慮」と「謙虚さ」が必要だと説く。東京・山谷のドヤ街にホームレスを受け入れるホスピス「きぼうのいえ」を作った山本雅基施設長に創設の動機を聞くと「アル中でホームレスになった人は自業自得かもしれません。でも、もしかしたら自分だってああなっていたかもしれませんから」と答えた。ケアとは、そんな謙虚さに基づく働きなのかもしれない。 「医療は本来、患者に対する(to)ものではなく患者のための(for)ものでなくてはならない」(砂原茂一著『医者と患者と病院と』)といわれるが、それはケアを提供する側と必要とする側についても同様である。 (05.2.3.尾崎 雄=老・病・死を考える会世話人、東洋英和女学院大学大学院非常勤講師) |
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vol.28 | 災害医療と情報――危機管理の基本について |
2005-1-18
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その上位は@「上水道の供給不能」(73%)A「電話回線の不通および混乱」(60%)B「ガスの供給不足」(54%)の順。「医療者従事者の不足」は44%で4番目、「医療品の不足」は21%と比較的少なく7番目だった。そして「被災で一番問題になった点」は「情報の伝達」だとし、次のように指摘している。「電話が使えない時の情報伝達を如何に考えるか。短波にするか、無線にする等種々対策が考えられるが平素より誤りなきようルールを確立しておく必要を痛感」したと。ようするに医者・看護師がいて医療品があっても水と情報がなければ被災患者を助けることはできないのである。 「阪神・淡路大震災を契機とした災害医療体制のあり方に関する研究会」(委員長・山本保博日本医科大学教授)は平成8年、災害時における救急医療のあり方について報告書を出した。これを読むと「阪神」から得られた医療面での教訓を7つ挙げている。その筆頭事項は次の通り。「(医療活動の)第一義的な調整・指令を行うべき県庁、市役所が被害を受け、通信の混乱が加わり、医療施設の被害状況、活動状況といった情報収集が困難になったこと」。被災地のどこに、どんな傷病者が、何人いて、どんな医療が、どれだけ必要とされているか――という情報を早くつかみ、的確な医療資源を早く組織的に送り込むための指令を発する。そのための情報の収集・伝達とネットワークの構築が最大の教訓だった。 6433人の死によって得られた貴重な教訓は「中越」の災害医療に活かされただろうか? 通信手段については「電話はほとんど使い物にならなかった。携帯電話も同様」(金子兼三・長岡赤十字病院院長)。指揮命令系統についても「外部からの医療支援チームはばらばらに活動していた」(斎藤六温・魚沼病院院長)のである。国は「阪神」後、広域災害・緊急医療情報システムの整備に取り組んだ。だが今回の地震では、それは機能しなかった。多数の傷病者が手当てを求めて殺到した激甚被災地の病院の多くは地震発生後24時間も的確な被災情報を送ることができなかった。災害地での人命救助は最初の24時間が勝負である。読売新聞(2004年11月23日付)は、新潟県は1998年にシステムをつくったものの一度も運用訓練を行っていなかったからだと指摘している。 赤十字病院の危機管理はさすがだった。長岡赤十字病院は大地震の際は電話が不通になることを前提に電話連絡網をつくっていなかった。「震度5以上の地震が起きたら職員は召集がかからなくとも全員自発的に出勤する」(金子院長)のがルールなのである。同病院の淡路記伊看護部長は毎月1度、歩いて病院に通勤し、「そのとき」に備えていたが、今回の地震でそれが役立った。 新潟・中越地震の余韻がおさまらぬうちに死者15万人とも16万人とも言われるスマトラ沖巨大地震・インド洋大津波が勃発、世界を震撼させた。地球上に安全な場所はどこにもないということが証明されたのである。元旦付け毎日新聞によると、今回の大地震をキャッチした太平洋津波警報センター(ハワイ)は津波発生の可能性についてタイとインドネシア政府に発信しており、両国政府がこの情報を適切に活用していれば被害の軽減につながったかもしれないと報じている。危機管理の基礎は情報なのである。 「なにごともできるかぎり気楽に考え、最悪の事態は、その最悪の事態そのものがあらわれてからはじめてこれを信じて、たとえ雲行きが非常にあやしくなってきたときでも、かくべつなにも将来のための措置をこうじておかないというのが、つねひごろの彼だった。しかしこんどばかりはこういった彼の傾向が正しいものとは思われなかった」。これはカフカの名作『審判』(岩波文庫版)の一節である。 (尾崎 雄=老・病・死を考える会世話人、日本医学ジャーナリスト協会・会員) |
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