市民の眼 尾崎 雄 Ozaki Takeshi |
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vol.39
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「書を捨てよ、町に出よう」 在宅ホスピス元年に思いを馳せる新刊書 |
2006-7-18
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今年は、在宅ホスピス元年だ」と以前、本欄にも書いた記憶がある。それは今年こそ看取りまで責任を持つ在宅医療が全国に広がることを期待した思いを込めた表現だったが、その願望が果たされつつあるようだ。このほど神戸で開かれた日本ホスピス在宅ケア研究会の全国大会と日本緩和医療学会総会を訪れたが、そこでの医師たちとの出会いや研究や実践の発表から「在宅」への確かな手ごたえを得た。最近のホスピス・緩和ケアの新刊書も「在宅」がキイワードになっているものが多い。 『幸せのシッポ』 8月15に出版される『幸せのシッポ』(文芸社)は、その一冊。「落ちこぼれ少年が脳神経外科医となり、挫折から立ち直り欧州に留学するが、帰国後に担当した脳腫瘍を病む若い女性の生きる姿に触れ、ホスピス医に転向する」(日野原重明医師の推薦文)という内容だ。著者の渡辺邦彦さんは、在宅ホスピス医を目指して栃木がんセンターを辞め、「栃木県立がんセンター、獨協医科大学病院はじめ栃木県内のさまざまな病院と連携して、自宅での緩和ケアを希望される方々のニーズに応える」ための在宅療養支援診療所を開設するという。 『13歳からの「いのちの授業」』 横浜甦生病院ホスピス病棟長の小澤竹俊さんも開業する。小澤さんは、非番の日は病棟から地域に出て、横浜周辺の小中高校で「いのちの授業」を行ってきた自称「ホスピスマインドの伝道師」。このほどその地域ボランティア活動を『13歳からの「いのちの授業」』(大和出版)としてまとめて出版したが、彼も在宅療養支援診療所の開業に踏み切る。診療所は病院に近いコンビニエンスストアの跡地で、コンビニエンスな在宅ホスピスを行うようだ。 『プライマリ・ケア医のための地域医療の実際』 町に出て地域貢献を目指す医師たちに向けて出版されたのが『プライマリ・ケア医のための地域医療の実際』(永井書店)である。事実上の在宅療養支援診療所を、45年前から東京の下町で実践してきた鈴木荘一医師が著わした。鈴木さんは日本人医師として初めてセントクリストファー・ホスピスを訪問してホスピスケアを診療所で実践したこの道の先達である。その後、ホスピス運動の母、シシリー・ソンダース博士から「在宅」の重要性を指摘され、在宅ホスピスに特化してきた。日野原重明先生は「日本で最も早くからプライマリ・ケアを実践されてきた著者の、プライマリ・ケア医学のサイエンスとアートがわかりやすくかかれたもの」と本書を推薦する。 『東京のドヤ街・山谷でホスピスを始めました』 地域医療に関心がない一般人が読んでも面白いのは『東京のドヤ街・山谷でホスピスを始めました。「きぼうのいえ」の無謀な試み』(実業之日本社、山本雅基著)。無一文同様の境遇の若者が元看護師の妻とともに1億6000万円もの借金をしてホームレスのためのホスピスを作り、老いたアウトロー患者と格闘する日々が本音で描かれている。それは、当然、奇麗事では済まない仕事だが、医療の原点は山谷にあることが見える。 『定本 ホスピス緩和ケア』 最後に挙げたい一冊は『定本 ホスピス・緩和ケア』(青海社、柏木哲夫著)。わが国ホスピス運動の創始者・重鎮として長年尽くしてきた著者が「私がたどったホスピス医としての経験を通して、臨床としてのホスピスケアにかかわる私の洞察と、制度としてのホスピス・緩和ケアの歴史をまとめた」もの。いわば「柏木ホスピス」の決定版である。わが国の緩和ケア病棟のモデルとなった淀川キリスト教病院ホスピスが熱い使命感とクールな計算・戦略によって、どのようにして実現したのか。その経緯を知ることは、これからホスピス・緩和ケアを目指す医師・看護師に共感とやる気を呼び起こすことだろう。 淀川キリスト教病院が事実上の在宅ホスピスを開始したのは1985年。柏木先生がホスピスを開設した翌年である。また、診療報酬改定と介護保険改正に基づく「在宅ホスピス元年」について、その歴史的意義と具体的な金額についポイントを明示している。診療報酬と介護保険の同時改定をきっかけに、多くの医師や看護師たちが地域に目を向け始めた。青年は荒野を目指すのだ。 日本で初めて、患者のニーズに応じて在宅、入院、通所の三つのホスピスケアを提供する三位一体ホスピスを行ったのは鹿児島市の堂園メディカルハウスといわれる。そこの堂園晴彦院長は医学生のとき、詩人・寺山修司が主宰する劇団「天井桟敷」の団員だった。そこの合言葉は「書を捨てよ、町に出よう」である。柏木先生もかつて荒野に叫んだ若者だったことを思い起こしたい。(尾崎 雄 老・病・死を考える会世話人) |
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vol.38
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ある開業医の物語『ドクトル・ビュルゲルの運命』 |
2006-5-11
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東京・神田の古書店街はその質と量において世界一だそうである。事実だとすれば神田の古書街は世界文化遺産の一つと言っていい。その一角で古い文庫本を買った。昭和28年に出版された岩波文庫『ドクトル・ビュルゲルの運命』(ハンス・カロッサ著、手塚富雄訳)だ。奥付に臨時定価四拾円とあるが、古本価格は200円だった。 <電車の中で>
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vol.37 | 女性解放”の旗手、ベティ・フリーダンを偲ぶ | 2006-3-10 | |||
2月6日付の読売新聞に1本の死亡記事が載った。「ウーマンリブ運動 ベティ・フリーダンさん死去」。 ベティ・フリーダンは1960〜70年代に活躍した女性解放の運動家である。米国だけでなくわが国のフェミニズム(女性解放・男女平等運動)に火をつけた人物。85歳の誕生日に当たる2月4日、ワシントンで死去した。 米国イリノイ州のユダヤ人宝石商の家庭に生まれ、名門女子大スミス・カレッジを卒業し、カリフォルニア大学バークレー校で心理学を学んだ。労働組合機関紙の記者などを務めたが「妊娠で退職を強いられ、3人の子供を持つ主婦に」(読売新聞)なった。離婚と失業も体験。1963年、ベストセラー「新しい女性の創造」(邦訳名)を出版。「郊外に住む中産階級の主婦たちの“満たされない生活”」(同)を描き、「女性が家庭の外で個人として自己実現を目指すよう呼びかけて、20世紀の女性の権利拡大や地位向上に大きな役割を果たした」(CNN.com)。 1966年、全米女性機構(National Organization for Women=NOW)を創設し、初代会長に就任。「人工中絶や求人の性差別撤廃、男女賃金の同一化、女性の昇進機会、産休といった問題に取り組んだ。その一方、男性と手を携える必要性を指摘し、強硬に家庭を否定しないよう訴えた」(CNN.com)。 来日したときの講演会で見たフリーダンはエネルギッシュそのもの。元気だった頃のシャロン・イスラエル首相を女性にしたようだった。私は1970年代、フェミニズムの影響を受けた女性ジャーナリストやフリーダン信奉者らに刺激され、黒一点の形で女性学の研究会メンバーに加わった。たとえば毎月1度、日本女子大の教員宅で開かれていた国際女性研究会には休まず通ったものである。そんな場で一緒にフェミニズムを学んだ当時30歳代の女性たちはその後、国会議員、男女共同参画局長、某県副知事や大学教授などに“出世”。各界で活躍している。私をフェミニズムの世界へと導いてくれた女性はすでに定年退職し、郷里に戻って父親の会社を継いだ。 30年前、我が国におけるニューフェミニズム運動の騎手を自任していた渥美育子氏(当時青山学院大学助教授)とフェミニズムを議論したことがある。そのとき分かったことは、フェミニズムの本質とは「個」の自立と尊重である。それは女性の自立と社会参画だけの根本原理ではない。民主主義の基本ではないか。 ベティ・フリーダンは「60歳を過ぎたころからは老いの研究に没頭。1993年に出版した『老いの泉』では高齢期こそ『希望に満ちた未知の冒険のとき』と唱えた」(読売)。フリーダンがNOWを創設して今年でちょうど40年。我が国において女性の社会進出のインフラ整備を求める女性たちのうち、どれだけの人が「ベティ・フリーダン」を知っているだろうか。それはともかく、少子高齢時代に突入したいま、彼女が40年前に提起した“女性の課題”は、いまや“社会全体の課題”にクローズアップされていることだけは事実である。(2006年3月7日、老・病・死を考える会世話人:尾崎 雄)
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